さて、次からは、これまでの「総集編」のようなものを「小説」の形式で書いて、もう一度、天照大神につながる日本を考えたいと思う。
「何から話そうか」と、少し欲張り過ぎたブログだから、マトメをしたいと思う。この私たちの日本は、高次元守護霊界に守られ導かれた国だと思う。その高次元とは、六次元シリウスだと思う。
西洋人の「スピリチュアル」は日本を語らない。おそらく、彼らには、日本は中国文明の枝別れした国、ないしは、自分たちの文明からは推し図れない国として在る。
プレアデスでさえ、日本の情報はない。もっともプレアデス人にとって、私たちが考える「人種」というものはない。故に、「此処には此処のやり方がある」といわれるひふみ神示は、唯一の日本の情報となる。
しかし、神道を軸に身魂磨きを示される神示の内容は、今日の薄れゆく日本的な文化の中に生きる私たちには、やはり難解であり、その大部分を消化することはもはや不可能だろう。
ひふみ神示は、日本に展開されたすべてのコトについて示されてあり、中でも日本神道が長い呪縛から解き放たれたあの時代にあって、高い精神性を持ち得た日本人に示されたのであって、その同調波長を私たちが持ち得ているとは言い難い。
しかし、だからと言って、ひふみ神示に流れる「合い(愛)」の確かな言葉は、私たち日本人には理解ができるから、私たちの魂を捉えている。
遺伝子を地球生え抜きの人類が、濃密に自然的にその肉体に刻むには、どれぐらいの時間が必要だろうか。たとえばそれは、親と子の姿や顔が似るように、日本列島が生み出す霊的作用の中で、ある意味濃密に行われる必要がある。
その濃密な条件を、地勢的に日本列島は造った、そう言える。島国日本は、元のあわの島(飛騨)から始まり、数々の島々が隆起して連なり、列島となった。あわ島は淡路島ではなく、飛騨ナギ・飛騨ナミのおわすヒダ=あわのことであった。「ヒダ!ヒダ!」と天孫族を称えたかけ声が、「いざ、出陣!」の「イザ」に転化したのだ。
その日本原住民遺伝子は、もはや薄まっている。ひふみ神示に「血の混ぜこぜはいかん」と云われるのは、こうした意味からであろう。しかし、それも自らが守護されてきた親心から出た言葉だろう。
シリウス人の足跡は少ない。シリウス人とは正に、謎の集団ではある。シリウス人はかつて、アクの三力と闘ったと云われる。シリウス人は地球原住民によって伝えられる。シリウス人は必要な時にだけ現れ、跡形もなく消える。
シリウス人はかつて、キリスト生誕の際に「東方の三賢人」として現れた。シリウス人は実は、アヌンナキ・リラ人を「改心」させたいと思ってきた。
六次元シリウスに見守られてきた国、それがこの日本であると私は言いたい。日本人は「形」に多きを見る民族である。礼に始まり礼に終わる。祖先を敬い自身を下とする。世界中のどの民族よりも、霊存在に近い生き方を通して来た。
「辛いお役はわが血統にさせる」とひふみ神示にあるように、ひふみの神はわが民族を子供だと言われる。私は民族主義を言いたいのではない。日本人の宿命を語りたいのだ。
この時代に日本人として生まれた意味を、問いたいのである。
かつて、黒人であり白人であり中国人でありマヤ人であって、何故この時代に日本人なのか?
この「褒美」を誇りたいのである。肉体に刻印された「褒美」に目覚めたいからである。それは、大変容が訪れた際に、「何から始めようか」と思う際に、豊かなまだ大自然があったと感じるような、そんな根源的喜びに似ている。
私たちの国土は、まだ生きるに可能な自然を有している。その可能性は、世界から見ればかなりな分量ではないだろうか。
「イザ行かん!」









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フラリと立ち寄ったのですが、大変深く共感いたしました。
あまりの嬉しさに、コメントを残します。
はじめまして、ジンガさん。
ジンガさんのブログ拝見させていただきます。
飛騨の物語、ひふみ神示の私解は、「何から話そうか」シリーズで展開してきました。長いブログですが、型を残したいと考えました。
ありがとうございます。