2007年06月30日


安政元年(1854年)、岩倉は正式に侍従となり帝とは思想的にも共鳴する。天皇は政治や外交に興味を覚えて人間が変わっていったが、岩倉は孝明と幼い日から続いたホモの情愛から抜け切れなかった。

34才のとき日米修好事件(調印は1858年)で大原重徳と組んだり、37才のとき皇女和宮の降嫁(嫁入り)に従って江戸へ行って公武合体を推進したのも、いとしい孝明との情愛ゆえであった。


それなのに天皇はやがて女性に興味をいだくようになると、岩倉との仲を絶とうとした。1862年、天皇も30才近く岩倉は40才代に近い、人生50才の時代であった。



老女は「天皇が岩倉をうるさいといって激怒するまでの10年間、この四条大橋の密室は二人の密会の場で、岩倉が絶縁を命ぜられてからは主に孝明の専用だったが、孝明さまが落命したのは下京区だ」といって紙に地図を書いてくれた。


数日のち私は地図を頼りに教えられた場所へ行って、土地の古老をつかまえて何気ない風で昔のことを聞いた。老人は耳が遠いらしく幾度も耳をつき出しながら私の質問をたしかめ、大声で当時のことをさも目撃したように喋りまくった。


殆んど生前の長崎稲佐の渡辺章綱から聞いていた話と同じだったし、また中京区の老女から聞いた話とも同じであった。


平成2年、私は再び下京区のその場所へ行った。ビルディングや風呂屋が立ち並んですっかり様子が変わってしまったが、伊藤博文らの忍者部隊が事がすんでから身体についた天皇の血を洗ったという川は、殆んど同じ水量で流れていた。


私は、天皇暗殺の現場として、渡辺老女に逢うまでは紫野、知恩院などの方面を想定していたが、堀河紀子の妾宅は下京区内であった。現在は三ノ宮通り上ノ口上ル岩滝町と変わって、地番不詳である。


(つづく)
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安政元年(1854年)、岩倉は正式に侍従となり帝とは思想的にも共鳴する。天皇は政治や外交に興味を覚えて人間が変わっていったが、岩倉は孝明と幼い日から続いたホモの情愛から抜け切れなかった。

34才のとき日米修好事件(調印は1858年)で大原重徳と組んだり、37才のとき皇女和宮の降嫁(嫁入り)に従って江戸へ行って公武合体を推進したのも、いとしい孝明との情愛ゆえであった。


それなのに天皇はやがて女性に興味をいだくようになると、岩倉との仲を絶とうとした。1862年、天皇も30才近く岩倉は40才代に近い、人生50才の時代であった。



老女は「天皇が岩倉をうるさいといって激怒するまでの10年間、この四条大橋の密室は二人の密会の場で、岩倉が絶縁を命ぜられてからは主に孝明の専用だったが、孝明さまが落命したのは下京区だ」といって紙に地図を書いてくれた。


数日のち私は地図を頼りに教えられた場所へ行って、土地の古老をつかまえて何気ない風で昔のことを聞いた。老人は耳が遠いらしく幾度も耳をつき出しながら私の質問をたしかめ、大声で当時のことをさも目撃したように喋りまくった。


殆んど生前の長崎稲佐の渡辺章綱から聞いていた話と同じだったし、また中京区の老女から聞いた話とも同じであった。


平成2年、私は再び下京区のその場所へ行った。ビルディングや風呂屋が立ち並んですっかり様子が変わってしまったが、伊藤博文らの忍者部隊が事がすんでから身体についた天皇の血を洗ったという川は、殆んど同じ水量で流れていた。


私は、天皇暗殺の現場として、渡辺老女に逢うまでは紫野、知恩院などの方面を想定していたが、堀河紀子の妾宅は下京区内であった。現在は三ノ宮通り上ノ口上ル岩滝町と変わって、地番不詳である。


(つづく)
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安政元年(1854年)、岩倉は正式に侍従となり帝とは思想的にも共鳴する。天皇は政治や外交に興味を覚えて人間が変わっていったが、岩倉は孝明と幼い日から続いたホモの情愛から抜け切れなかった。

34才のとき日米修好事件(調印は1858年)で大原重徳と組んだり、37才のとき皇女和宮の降嫁(嫁入り)に従って江戸へ行って公武合体を推進したのも、いとしい孝明との情愛ゆえであった。


それなのに天皇はやがて女性に興味をいだくようになると、岩倉との仲を絶とうとした。1862年、天皇も30才近く岩倉は40才代に近い、人生50才の時代であった。



老女は「天皇が岩倉をうるさいといって激怒するまでの10年間、この四条大橋の密室は二人の密会の場で、岩倉が絶縁を命ぜられてからは主に孝明の専用だったが、孝明さまが落命したのは下京区だ」といって紙に地図を書いてくれた。


数日のち私は地図を頼りに教えられた場所へ行って、土地の古老をつかまえて何気ない風で昔のことを聞いた。老人は耳が遠いらしく幾度も耳をつき出しながら私の質問をたしかめ、大声で当時のことをさも目撃したように喋りまくった。


殆んど生前の長崎稲佐の渡辺章綱から聞いていた話と同じだったし、また中京区の老女から聞いた話とも同じであった。


平成2年、私は再び下京区のその場所へ行った。ビルディングや風呂屋が立ち並んですっかり様子が変わってしまったが、伊藤博文らの忍者部隊が事がすんでから身体についた天皇の血を洗ったという川は、殆んど同じ水量で流れていた。


私は、天皇暗殺の現場として、渡辺老女に逢うまでは紫野、知恩院などの方面を想定していたが、堀河紀子の妾宅は下京区内であった。現在は三ノ宮通り上ノ口上ル岩滝町と変わって、地番不詳である。


(つづく)
ニックネーム 龍 at 19:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記


昔の言葉で今は使わないが、うごめきかすかに動く、腸が食物を先へ送るときの運動で「ぜんどう」というのがある。この「ぜんどう」をおもむろに、音楽でいうなら「センプリチェ」「レント」「アダージョ」とやり始めた。


老女は目を閉じている。多分まなこを閉じて若き日に高貴な人とまじわった情況を追想し味わっていたのか。



私はたまらなくなって射精した。女がいった「抜くな」と。10分ほどすると再び私の肉棒がかゆくなって鎌首を持ち上げた。


すると今度は「ぜんどう」が激しく早く男根は膣の奥へと吸い込まれてしまい、睾丸までが膣内に吸収されて、私のへその下に女の「サネ(クリトリス)」が変形発育した突起が「ぐりぐり」と突き立って私の腹部を愛撫した。



私はたまらなくなって思わず大声あげて叫んで老女にしがみついた。老女も私の背に両手を回して抱いたが、全身は不動の姿勢でも激動している陰所は女とは別の機械のように全く衰えを見せずに、ますます激しく動いた。

※ 「クリトリス」が変形発育して、それが動いたと記憶されている。「愛撫」とまで記憶されているが、多分に過大な記憶であると思う。

「クリトリス」が異様に発育することはある。そして、それ自体が動くこともある。著者は完全に老女に「呑み込まれた」のだと想像する。


少し前のストリップの女性でも、膣の動きやクリトリスの異様突起を売りにする人はいた。




私は射精したが余りの疲労でそのまま眠ってしまった。目が覚めると再び「ぜんどう」が始まって絶頂で射精した。12回目あたりになると「気」は行ったが精液は出ない。


老女は満足したらしく「そのまま」といって、熱湯を入れた金だらいでタオルをむして私を清めた。私は精液の代わりに血を出したらしく亀頭が赤くなっていたが傷はなかった。


仕事がすんで茶を呑みながら、淡々と老女が語った。以下は老女の説明である。



「私がこんな達人になったのは稲佐の殿様(渡辺章綱)の仕込みじゃ、歌女さんも仕込まれて上達しやしたんじゃろな」という。


老女の説明によると、幕府は朝廷に対して、「生活費を充分渡すから政治には口をだすな、セックス面で堪能してくれ」といっていた。


殿方ははじめは美女を求めるがやはり女の道具の良し悪しとなり、いくら女に手を出しても庶民とはちがって「強姦」な「わいせつ」とはいわれない。しまいには信長と蘭丸式になる(ホモ続きを読む
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夏のこととて私は浴衣を着て高下駄をはいていた。背が低いので高下駄で歩いたのである。


老女は名をいったが思い出せない。性は章綱と同じ渡辺で代々家守をしているという。


※ 地下の屋敷がある家、そこは朝廷の持ち物である。この老女は、私から見ると女忍者であり、老女から代々の家守もまた、葉隠れ者だと考えられる。




私が章綱の名を出して孝明天皇について話を聞かせてほしいと頼むと、老女は真剣な顔でいった。


「私はそのとき現場にいた。私が見たことは全部教えてやる。やるが、私のいうことをきけ」

老女は続けて、


「おまえは二度とここへは来るな。来ると命は無いぞ。孝明様の話は50年間は喋ってはならない。妾(老女のこと)はずっと男に飢えておった。今夜は妾に乗れ。嫌だというなら殺す」と恐ろしい形相で睨んだ。


私はそう簡単に殺されないだけの修行は積んでいたが、情報を入手するためには仕方がない。女の要求を呑むことに決めて、


「俺はな、子供の頃にお医者さんごっこをやったが大人の女とは始めてだ」といった。


女は私には60才といったがもっと歳をとっているように見えた。実際には70歳以上であったろう。恐ろしく魅力の無い顔であった。私は人並みよりも背が低いが、私より短身でずんぐりして横幅があり、特に腰が太くて頑丈そうであった。



私は童貞だったから、こんな不器量の女とやるのかと情けなくてモジモジしていると、老女は私を素早く裸にした。


「いい体格じゃあ」と褒めて六尺ふんどしを手際よくはずした。すると私のものがだらしなく「ぶらりん」と飛び出した。


女は「あまり使ってないな」とつぶやき左の手のひらへ玉を乗せて右手の指で皮をめくり、包皮と亀頭の間にたまった垢を舌で舐めとって亀頭をゆっくりと摩擦し始めた。


※ 老女が「訓練」された女性である事が判る。




これが利いたのか男根が固くなりはじめた。すると女は左手を微妙に動かし睾丸を強く弱く絶妙なテクニックで揉み始めた。男根は怒り天をつく形相となり、老女の醜悪さもどこかへ吹っ飛んでしまった。


老女は座布団の上で腰巻きと着物をたくしあげて両股を開いた。ひどく臭う。頭髪が半白であるのに陰毛は黒々として繁茂し、その奥は褐色で入り口に男根のような突起がある。

「何を眺めとるんや。はよう乗りな」と命じられた。私も催して来たので腰を低くして老女の股の間にひざまづき、続きを読む
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孝明天皇の暗殺(一)


大室寅之祐が睦仁(本当の明治天皇)とすり代わって明治天皇になったという事実は、維新の革命家は知っているが国民の殆んどは知らない。「忠節なる臣民」とか「赤子」などとおだてられて犬か豚のようにとことん酷使され、鉄砲玉となってあの侵略戦争の犠牲になった国民の殆んどは明治、大正、昭和と続いた奇妙な教育で、自ら考えることができない理性を失ったロボット人間に変造されていた。


しかし1866年11月25日の孝明天皇暗殺はまぎれもない事実であり、北朝という一つの王朝の消滅であった。


中山(孝明天皇の妻方の義父)や岩倉は、天皇の遺体を洗い清めて食中毒ということにして(孝明天皇の遺体を)睦仁に見せたから、睦仁も一応は納得して慶応3年1月9日に践祚(新天皇になること)した。


先帝には同年2月16日、正式に「孝明天皇」の諡号(亡くなってから贈られる名前)が送られたが、睦仁は宮中の慣習によって女装して女言葉を話すなど、16歳にしては体格も悪くて華奢な少年で、かって岩倉のオチゴさんであった孝明天皇の血筋を引く天皇であった。


※ 「岩倉のオチゴさんであった」の意味は、後に二人の関係が明かされる。




睦仁は女形の子役のようなひ弱な体であったが、生まれながらの皇子で先帝に似て強情であった。自分のオバ様(孝明天皇の妹和宮は徳川家茂に嫁いだ)が縁付いた徳川家を討とうとする勤王家を憎み、公武合体を主張した亡父の志を継ごうと決意して倒幕に反対した。


鹿島氏によれば、かくて睦仁の毒殺も易々と実行された。内部の者だけが知り、犬か豚か、奴隷のように扱われた国民は何事も知らされず、国民は睦仁とすり代わった大室寅之祐の写真を明治天皇として神棚に祀って拝んだ。


大室寅之祐は長州奇兵隊の伊藤俊介(博文・伊藤博文は名前を替える名人である。いや、迷人か)の力士隊の隊士だったから、伊藤の子分同様の少年であったろう。明治になってからも生涯伊藤を裏切らず、伊藤に頼まれると、彼と対立した重臣たちを片っ端から大根を切るように切って捨てた。



さて私は孝明天皇暗殺のことを書かねばならない。


私は大正13年、亡き渡辺章綱の遺命によって京都に行った。


京都市中京区の四条大橋のたもと、石垣の中程に鉄門があって鉄門の中に地下道があり、それを行くと広大な地下の屋敷がある。そこは朝廷のかくれ屋敷で、孝明天皇と岩倉が密会用に使っていたのである。


大正続きを読む
ニックネーム 龍 at 16:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年06月29日


私の母親歌女は平佐衛門の後妻であったが、私の十二、三歳まで添い寝してくれた。そのとき彼女が慶喜の寝室に行かされたことを語っている。


のちに渡辺家の小間使いか、行儀見習いかさだかでない新居起代子の兄・新居起代太が「あなたは渡辺の殿様の種だが、産んだのは歌女様ではなく私の妹の起代子だった」といったことがある。私はそういわれて起代子と共に別府の岩崎男爵の別邸で約一週間くらしたが、起代子は私の生年月日を聴いても知らなかった。


新居氏は陸軍退役大佐で北鮮(原文のまま)の元山府知事、のちの商工会頭の伊藤隆式が伊藤博文の義弟だといっていた。


※ 北鮮とは北朝鮮のことである。こうした言い方から「馬鹿でもチョンでも分かる」といった差別語が生み出された。「チョン」とは朝鮮人を指しており、朝鮮人を「馬鹿」と同列に扱う意味から、明らかな差別意識からの造語である。




昭和十七年迄私がどこに居ても私の居所をつきとめたが長崎の新居家の所在を私にかくし、起代子死去の時も「来るには及ばず」と連絡してきた。それでは起代子が私の母である筈はないではないか。これは私の動静をさぐるための伊藤のさしがねであろう。


のちに私は新居起代子と伊藤の義弟が同居していた事実を確認している。


さて、父は渡辺平佐衛門などという偽名で世の中と息子の私までごま化していたのであるが、まず平佐とその妻歌女について説明しよう。


慶喜と平佐衛門は面相がそっくりだった。私は老化した慶喜の写真を見て「アッ」と驚いたほど似ている。歌女が平佐衛門と同じ位の情熱を慶喜に捧げた理由もうなずけたのである。………(渡辺家の説明あり、略す)………


私は、父である渡辺平佐衛門章綱から孝明天皇刺殺の次第を教えられ、この事実を天下に明らかにするように遺命を受けた。


それなのに、いま勇敢なる鹿島氏と対面しながらも、孝明天皇暗殺の真犯人であって明治憲法を作った初代総理伊藤博文の名を挙げられず、長州忍者ぐらいにしておこうかと考える。煮え切らない配慮が内心にうごめくことが情けないのである。要するに、私は小心者であり臆病者であった。いま九十才をこえる長寿をえて最早恐れるものはないであろうに。


父である平佐衛門にすまない、またくりかえし夜毎に口伝してくれた母の歌女にも申しわけないと心からお詫びをしたい。


だから今から決心して、記憶の糸を探りながら記述してみよう。


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ニックネーム 龍 at 23:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

徳川慶喜と伊藤博文の秘密


『明治維新の生贄』の中の「その一、伊藤博文の天皇暗殺と父・渡辺平佐衛門」著者宮崎鉄雄より P18〜


〇 父・渡辺平佐衛門の遺命


鹿島昇氏の『裏切られた三人の天皇』を読んだ。その死を恐れない正義感に接して私は非常に恥ずかしい人間であることを知った。日本の歴史家に鹿島氏のような勇気があれば、日本史がウソ八百で固められることもなかったであろう。


私の父、渡辺平佐衛門は長崎市で青年学校を作った。渡辺家は嵯峨天皇の末裔であり、幕末には一万三千石を貰って大坂城の定番であった。


※ 城主(徳川将軍)の配下に、城代、各奉行、定番が置かれた。定番とは、いわば、諜報機関の長(責任者)のような職務であろう(『長州の天皇征伐』より)。



渡辺平佐衛門は自ら源西古といい本名は丹後守章綱(たんごのかみ・あきつな)である。
「明治初年、長崎市稲佐の渡辺青年学校は三万五千坪、木造総二階(一部三階)で、明治二十年、郵便配達と警察官巡回に不便なりとの抗議あり、二丁目、三丁目通路のために校舎の一部一階をこわし防火のためその貫通路の中央に井戸を作った」と私の母の歌女に聞いて、その井戸の所在を確認した。


※ 宮崎鉄雄さんのお母様、歌女さんについては名前を覚えておいてほしい。重要な役割をされる。




兄は魁(さきがけ・かい)といって長崎で判事をしていたが伊藤が派遣した長州人の刺客に稲佐橋の付近で襲われて、刺客側は死者三人、重傷者八人を出した。このとき父の平佐衛門が重傷になり、のち明治二十七年、東京千代田区永田町の本宅で死亡したことになっている。


平佐衛門は大坂城定番であったが慶喜の命を受けて孝明天皇暗殺の犯人を調べ、それが伊藤と岩倉であることを知り、青年学校の生徒たちにそのことを公言していたから伊藤に命を狙われたらしい。


しかし実は平佐衛門はこのとき九死に一生をえて、大阪市淀川べりの鴻ノ池の倉庫にかくれて生き延び、変名して長崎へもどり、もと八百人いた生徒関係者の中から数十人を集めて再び寺小屋式の私塾を営んで明治四十四年まで生きた。


かつて松尾造船や山野辺家など県をあげて後援した素封家たちも、「渡辺は伊藤公に敵対して地下室に武器弾薬を大量に隠匿した。よって廃校する」という政府(内務卿)の命令で自然と足を遠去け、その後「渡辺青年学校あと」の碑の設立さえ実行できずして今日に及んでいる。



私は平佐衛門の子供として十五続きを読む
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休憩


私はこれから、なまなましいかつての話を書いていく。


アヌンナキは地球を「アヌ・ステーション」と呼んだように、地下資源を略奪すれば母星ニビル星に帰っていった。片やリラ人は、地球の地下に住み着いた。そこは低層四次元と呼ばれ、人間を堕落・腐敗させて、人間が出す濃密な怒り・怖れ・不安といった、ネガティブな意識状態を操作し、それらを悪魔は食糧としてきた。


人間をそのような意識状態にしておくために、人間を囲み込んだ。日本では、天皇や貴族、また武士階級は、囲み込まれたのである。時は幕末である。


「権力者が囲み込まれただって?」と考える人は、異星人の地球支配の介入が理解されないかもしれない。もちろん、農民、商人、工人とて囲み込まれたのであって、エタ、非人はさらに厳しい実態にあったのは言うまでもない。


権力者に自由があったと考える人は、本当の自由について考えた事がないのかも知れない。ならば、誰でもいい。身近な、誰かを思い浮かべて見ればよい。もし、自由だと思える権力者が居たら、余程の身勝手な人間だろう。


あらゆる組織、その権力者には、いくつもの紐が付いてはいないか。幕末の頃、将軍も紐つき天皇も紐つき、その側近者にも紐がついていて、がんじがらめである。


権力者も本当は、しっかりと囲み込まれていたのだ。何年も何百年も、いや何千年もだ。誰にか?地球地下で生きる異星人によってだ。


リラ人は日本人を仲間にするために、リラ人のやり方を教えてきた。戦いの方法、人間の支配の方法、略奪の方法、そして、合わせて、人間が生理的に恥とする性まで、人間をそそのかして教えてきた。


飛騨の国に一夫多妻はなかった。集団を維持しなければならない、地理的に厳しい土地の条件に生きる場合、それは必然として存在したが、日本の古代は豊かであり必要はなかった。


しかも子孫を残す目的での一夫多妻と、幕末の一夫多妻は明らかに違う。幕末の一夫多妻は、沈溺であり依存である。しかも形の上では、最高権力者のみに許されていた。将軍と天皇である。


形式的には子孫を残すためとされたが、実態はそうではなかった。沈溺と依存がはびこるということは、とりもなおさず不安や屈折の裏返しである。魂の抜け殻のような状態の将軍や天皇を、それでも自由だと言えるだろうか。


そして、この沈溺と依存は故意に拡大され、永く「飴」と利用されたのである。


側近者たちは腹の中では続きを読む
ニックネーム 龍 at 09:48| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

こんな話


仙台に仙台太郎という、福の神にされた実在の人がかつていた。何故福の神にされたかというと、この人が訪れた店が繁盛したからだという。


写真が残されている。この人が訪れた店は繁盛するから、太郎さんを店に入れるために、歩いてくる太郎さんを呼びとめる。が、太郎さんは気の乗らない店には入らなかったらしい。


太郎さんは、「知恵おくれ」と表現される人で、あまり話さない人だったから、誰もが太郎さんが何を考えどう店を選んでいるのかが分からなかった。


しかし、太郎さんが入った店が繁盛することは事実だから、店ではタダで太郎さんをもてなした。すると、不思議に他の客が大勢やって来たのだという。


太郎さんはその内、加熱する各店のやり方に嫌気がさしたのか、町に現れなくなった。商店街の店ではいまだに太郎さんの姿の紙を張り付け、福の神として扱っているという。



さて、俗に、墓地跡の土地で商売をすると、不思議に人が集まると言われる。霊が人を集めることに何らかの関わりをする、と信じられている。


太郎さんは、たくさんの霊たちを引き連れていたのだろうか。そんな感想を持つことができる。しかし、私が言いたいのはそんな事ではない。


覚醒というイメージに、私たちは文字通りのものを持ち感じる。そのイメージは「賢く」「明晰」で、「気高く」「高貴」である。果してそれは覚醒のすべてを言い当てているだろうか?


確かにキリストのイメージはそうである。確かに、そういう人物像が望ましい。個人的にも、覚醒のイメージはそれらである。


だが、それらイメージを疑う必要もある。何故ならば、学んできたように、それらイメージさえが操作されてきているからだ。


人に何一つ説法らしい事をしない賢人が、極端に言えば人から馬鹿と呼ばれるような人が、高い覚醒を得たことを、それこそ本当の馬鹿が判断など出来はしないのだ。


つまり、何回も書いてきたように、覚醒の段階が均一で有り得ないように、覚醒者はさまざまな形態を持って現れるだろう、ということである。


精霊に交霊できるような人は、おそらく人間的な思考や判断からは離れており、その覚醒段階に達しない者からは奇異と見えるだけだろう。


人間的な頭脳や明晰さなどは、その際には役に立たないかも知れない。そんな当たり前に、仙台太郎さんの話は気づかせてくれる。


私は幽体離脱を素晴らしい能力だとは考えず、そんな他の世界を続きを読む
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2007年06月27日

伊藤博文の忍者刀


本の最初に写真がある。伊藤博文の忍者刀とあり、山口県の図書館が保管している。「わきざし」とあり、長さ「47.8センチメートル」の刀である。


本の共著者、鹿島さんや松重さんは、坂本竜馬の暗殺犯人を西郷隆盛側の武士だとされるが、私は伊藤の忍者側の者ないし伊藤本人だと考える。まさにこの忍者刀は、その事を強く意識させる。
ニックネーム 龍 at 18:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

「明治維新の生贄」


『明治維新の生贄』―誰が孝明天皇を殺したか (長州忍者外伝)から、宮崎鉄雄さんの書かれた文章を転載しようと思う。


氏の文章に対する私の考えを随時入れていく。


宮崎鉄雄さんは、徳川幕府の最期の将軍、水戸藩から将軍となった慶喜の側近者の息子である。


宮崎さんの父上は慶喜から、孝明天皇を弑逆した犯人を探すよう命じられた。そして、その弑逆の実行者を伊藤博文と確認された。


父上は亡くなる前に宮崎さんに、その当時を知るある老婆に会いに行くように言われていた。宮崎さんは会いに行き、老婆から一部始終を教えられる。


この文章は、文字通り「清濁合わせもつ」人でなければ、消化することは出来ない。宮崎さんは孝明天皇をも批判の対象とされているようだが、私は同意はしない。


しかし、この文章が非常に重要な情報を伝えている事は確かである。生々しい描写は、真実を伝えんが為であり、反ってその事がそれぞれの人の役割を明確にさせている。


江戸城の内部に置かれた大奥は、単に将軍の色呆けの為に存在したのではなく、長い歴史の闇とされた権力者たちの、性への指向から生まれたと捉えなければならない。


私は、権力者好みの女たちが「造られた」と見ているために、第十代崇神天皇の御代前後にも、こうした「造られた」女たちが存在してきたと考える。



天皇と云えども、祭り上げられるだけの中身の無い存在とされてきたのだから、むしろ実質権力者の側近貴族や江戸城側から、どんな「飴」を当てがわれていたかを知ることは必要である。


私はこの文章をもって、孝明天皇に対する私の、人柄や思想を変えるつもりはない。私は、実に太田龍という人の思想を偉大だと思う。氏にはこの混乱の背景がはっきりと見えているからである。


宮崎さんには当然、その事件の背景は見えてはいない。故に、「明治維新」なる幻想が、一部の腐った権力者の間で行われた「事件」だとうつる。そうではないし、そうではなかった。「明治維新」は、英国、フランス、米国などが日本に仕掛けた、日本国乗っ取り作戦の第一幕に過ぎなかった。


孝明天皇を殺したのは伊藤博文だが、作戦の中枢に居たのは岩倉・桂などだが、本当の黒幕は、当時中国マカオにいたサッスーン財団の親、ロスチャイルドである。
ニックネーム 龍 at 18:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

黒澤映画


私が生まれた年に、「七人の侍」が上映された。黒澤映画には、貧しい人々がよく出てくる。「七人の侍」にも、野武士・盗賊団に対して無力な、時には観ている者からして腹立たしくなる非力な農民たちが出てくる。


だから、三船さん演じる竹千代は怒る。「お前らは何だ!腰抜ばかりか!」と、竹千代は自らが貧農民の出身だから農民をなじり続けるのだ。


竹千代は野武士たちが襲った家に、一人生き残った赤ん坊を見つけ出し、その赤ん坊を抱いて叫ぶ。「この子は俺だ!」、竹千代は自らの出自を告白しながら男泣きする。


その竹千代の悲しみは、非力な農民の心に火をつける。「この子は俺だ!」竹千代は自らの今の立場も取り戻すようだ。


食うだけの、まるでロボットのように、文句も言わずただ、ただ働くだけの農民の、非力な農民を、時には嫌悪すら感じさせる黙ったままの農民を、黒澤は必要以上に描き出す。

私は感じた。その無抵抗の農民の姿こそが、すべての問題を含んでいたことを。闘える側は「闘え!」とは言える。竹千代のようにドロップアウトした様な人は言える。


彼らが何故、闘うことを止めたのか。何故、そんなに無表情で居られるのか。その貧しさの現実は、知らない人間からは奇妙にしか映らない。


彼らはことごとくが心を閉ざしているのだ。閉ざさなければ生きては行けないからだ。自らの暮らしに専念しない限りは、生きては行けないからだ。


鍬とやせた土地で生きねばならない彼らには、自らの世界を限定して生きる必要があるのだ。黒澤は人間の思考の内側まで迫っている。観る者に迫っている。


「赤ひげ」の心を閉ざした娘と「七人の侍」の農民の姿は、共に、極貧が人間に何をもたらして来たかを問いかけている。それらは、大胆に言えば、人間ではない存在、気の魂の抜け殻の存在であるだろう。


あの時代の貧民が、そういう存在とされた事を、二本の映画は見せている。そして、現代はどうか?


私には、現象的には異なるが、同じ本質的なものが底には存在しているとしか見えないのだ。


「この子は俺だ!」「この子は私だ!」と、竹千代のように叫びたい状況が以前として繰り返されて行く。あれから50年、本質は何も変わりはしない。
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赤ひげ


映画「赤ひげ」は黒澤監督の65年の作品だ。「赤ひげ」の医者は、江戸時代の人である。

映画はカワラ屋根から始まる。タイトルが出て、出演者の字幕が出ても、依然として屋根ばかりを写していく。密集した屋根瓦、その下には人々が屋根のように密集して生きている。そのことを想わないとこの映画は読めない。


監督、黒澤明と出たところで、加山さんの背中が現れてその向こうに、「小石川養成所」の門が見える。「赤ひげ」はこの養成所(病院)の院長だ。演じるは三船敏郎さんである。


この作品の三船さんが私は好きだ。セリフはどちらかというと少ない方だが、人物像がよく出ている。「赤ひげ」は少し困るとヒゲを右手でわしづかみにする。実に男らしいが、実に苦悩に満ちた役処である。


「小石川養成所」は貧乏人の病人ばかりがいる。白黒の画面がよけいに、その人たちの表情に凄味を加える。「どん底」に共通する、やるせない、どうしょうもない、観る者をすえた臭いのする養成所に無理矢理引きずり込んでいく。


私は「どん底」や「赤ひげ」に、小さな頃に見て知った、ある種のなつかしさを感じた。しかし、それは同時に、逃げ出したいような感じまで蘇らせた。


加山さんはやる気のない、今でいう「インターン」の医者で、私事で最初から養成所で働く気持ちがない。「赤ひげ」は現場を見せるだけで、特別に話したりせず説明もしない。

一部が終わる前に、「赤ひげ」は若い加山さん演じる医者と一緒に遊郭に入って行く。そして、そこで虐待を受けて心を閉ざした十二くらいの娘が、熱を出しているところに出会う。


「赤ひげ」は娘を連れて帰ろうとして、遊郭を見張る男たちと格闘しやっつけてしまう。また、「赤ひげ」は、可哀想な女を助けるために、役人に「妾」ネタをバラスと脅かし、女を助け金まで巻きあげる。


「赤ひげ」は自分を「こんな男だ」と卑下するが、財政難の養成所を維持するためだと若い医者は理解する。若い医者の閉ざした心が開いていく。その時に、「赤ひげ」は加山さんに「この娘の面倒はお前がみろ」と、心を閉ざした娘を任される。



娘は熱を出して寝込むが、一向に言うことを聞かない。薬は飲まず、人を信用しない。若い医者は自分の部屋で眠らずに娘を看病し、ついには自分が熱を出して倒れてしまう。


娘は自分が壊したお茶碗を弁償しようとして、ある朝、「コジキ」をして金を貰い、店でお茶碗を買う。娘は相変わらず続きを読む
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2007年06月23日

風ちゃん


猫の風ちゃんと、外は暑いけれど、窓を開ければ涼しい部屋で、私たちは寝転んで、私はブログを打っていた。

風が図書館の本の予約票の紙を飛ばしたのだろう。その予約の紙を、風ちゃんが手にしているところを気づいた。


腹を上にして、ふすまに寄りかかって体勢を維持しながら、手だけは紙を押さえている。変な格好をする猫ちゃんだ。


私は電話した。


音声応答サービスで、風ちゃんが教える本が図書館に来ていることがわかった。


「おい、大した猫やな」と、「もの」にお礼を言う。自転車に乗って図書館に行ってきた。風ちゃんには、大好物の「カニかま」を少しだけあげた。


変動の中で、「もの」を見極める目が必要だ。「奴ら」は小手先の動きを重ねるが、うわついた「もの」だけは同調しているが、加実の動きを見極めよう。

加実の動きは、宇宙空間ごと変えているから、自分をもっと大きくしないと判らないから、グラウンディングして行こう。


さあ、今夜は読書だ。風ちゃん、「ありがとう」。
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「もの」と表す言葉


西洋の論理の組み立てで、日本の「ことたま」が理解されるはずはない。西洋の言葉が氾濫している今日、「ことたま」を考えることは大変に意義がある。

どうやらすると、既に、言葉で伝えることにも限界がある今日である。しかし、言葉以上の「もの」を伝える人は、まだまだ居ておられる。


思い出してみれば、みんな昔話が好きだった。言葉は独り歩きをするから、それぞれの中で物語の続きは広がった。本当に私たちは、昔話が大好きだ。


世界の原住民を学べば、言葉の数自体はシンプルなものだと分かる。シンプルでなければ意志の疎通は難しい。「もの」とシンプルに表現されたが、実にさまざまな深い意味がある。


「もの」を引き寄せている人がいる。たとえば、社長さんや芸人さんは、皆が作り上げたイメージを自分の「もの」にする。


「……らしく」と、自ら望んでその「役」を引き受け、自分の中でさらに広げる。私たちも少なからず実行している。小さい頃から「訓練」された日常の中で、「……らしく」を実践して来ている。


それはまるで、いろんな色えんぴつを持ち、ある場面ではこの色を使い、またある場面ではこの色を使うというように、使いわけを心得る。


さて、その使いわけの色の正体を「もの」と考え、それら「もの」が本当に自分に必要な「もの」かどうかを、このブログは書いてきた。私は明らかに、その「もの」たちが魔法から生まれたと考える。


小さな子供が迷うのは、あまりにも大人が、たくさんの色を投げ掛けているからだ。彼らは混乱している。いや、大人も混乱しているのだ。



仕事において、家庭生活において、さまざまに完璧を求めるように「……らしく」を求めるられた挙句、その線路を行く事に疲れたら、「やる気がない」と自分も周りも判定し、「うつ病」と認定される。


「もの」は、どういう形態を持って存在してきたか。この現代社会にはびこる「もの」は、何処から来て、そしてどのようにして根付いたか。


貴方はその「もの」を、再生産し拡大し、その「もの」に命を与え、後生大事にしては来なかったか。


ことばに「もの」が反応する。波動に「もの」が反応する。それは人間の一番大切な内面にも反応する。


「もの」はエネルギーであり、霊的存在まで内包する。それを何千年かけて、人間は実体として知った。つまり、「もの」に対応することばを、人間は作り出したのだ。


人間は学ぶことから言葉続きを読む
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2007年06月22日

生まれた子供が死んでいく環境


戸籍によれば、実在のおばさんと不明のおばさんの歳の差は、約7つある。父とは12ある。


祖母はけしてからだの弱い人ではなかった。あの時代に160センチくらいの大柄で、骨格もしっかりとした人だった。子供を腹に抱えながらの重労働と、慢性的な栄養失調が原因で、生まれた子供は一週間も経たない内に死んだ。


祖父の生まれた家も同様で、祖父の実の兄も生まれて十日ほどで亡くなっている。私の家系は長男が生を全う出来ていない。


被差別部落では流産、早産はめずらしくなく、早死にもけしてめずらしくはなかった。そんな中で、祖父と祖母に待望の女の子が生まれた。大正末期の頃である。


その子は養子に出された。だから、父が「顔も知らんのや」と言うのはよく分かる。しかし、子供が欲しい家はあるだろうが、差別が厳然とある時代に、誰がその子を引き取ったのだろうか。


被差別部落の人々に、移転する「権利」が形としてあったとしても、やはり同じ被差別部落の親戚が子を引き取ったと考えるのは無理がある。そして、祖父と祖母に、そんな外の親戚があったなどは聞いた事がない。


私は上品なおばさんを思い浮かべた。直ぐにはつながらなかったが、おばさんの過去を聞かされていたので、そのおばさんしかいないと思うようになった。

おばさんと祖母は血がつながっている。姉妹だと思うが、まだ確認はしていない。


何故そのおばさんの事を、みんなが話したがらないかと言うと、「お妾」だったからだ。それは、我が身内のタブーなのだ。しかも、旦那は、親戚の仕事を作ってくれる立場にあり、高校生の頃に話を聞いた私は、本当にびっくりしたぐらいの創業者なのだ。


タブーにした第一人者は、誰あろうヒゲのおっさんだろう。ヒゲのおっさんを祖父は信頼していた。子供の先ざきを心配した祖父が、ヒゲのおっさんに相談したかも知れない。ヒゲのおっさんは、大阪のおばさんの暮らしぶりも、子供が出来ない事も知っており、ヒゲのおっさんが養子の打診をしたに違いない。

そして、当時小さな赤ちゃんのおばさんは部落から消えた。それで良かったかも知れない。「お妾」さんと言えども、まだましな暮らしはある。肩身は狭かったかも知れない。本当の事を伝えられていたかどうか、わからない。


そして、不明のおばさんは、昭和20年に亡くなっている。病気かも知れないし、大阪大空襲の可能性もある。ほどなく上品なおばさんが部落に戻って続きを読む
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写真の二人


父方の祖父が大切に飾っていた写真の額に、祖母の弟と二人で撮った写真があった。弟はサマースーツを着ていて、ズボン吊りにネクタイをしている。片や祖父は半袖下着に綿のような作業ズボンをはいており、パッと見た感じでは、現場の偉いさんとそこの作業員といった感じだ。


以下は私の推論である。


祖父たちの時代、仕事はいわゆる出稼ぎで、各地の飯場を回っていた。そこで、地元には、こうした各地の飯場に働き手を斡旋する者がいた。


飯場には「飯炊き」の女が必要で、いわゆる給食係りは地元の斡旋有力者の身内が使われた。


獣の中に入って仕事をする女は、よほど肝の据わった女でなければ勤まらず、よって地元の斡旋者は身内を入れ、地元の者に女を守らせた。地元の者の中から信用できる男を選び、「班長」のような肩書きをつけて飯場をきりもりした訳だ。


それがその写真の説明である。


被差別部落には読み書き、算盤勘定の出来る人はほとんどいない。その点、祖母の弟はうってつけの男だ。弟は飯場を見に来たのだろう。そこで、その写真の一枚になった。


二人は笑っていて実にいい写真だった。


その工事現場の仕事は、現最大手のある組の下請だった。大量に一時的に労働者が必要な場合、まだヤクザ組織も十分でなかった時代、最大手のある組は各部落の斡旋者に仕事を依頼して来た。被差別部落には屈強な肉体労働者がおり、しかも何人かまとめて仕事に就いてくれた。大手にしてみればありがたい労働市場である。


現場でトラブルのない「班=グループ」は重宝された。反対に、文句やトラブルメーカーは、次から仕事が回って来ない。祖父たちは気に入られたようであった。飯場を任され、そこの「飯炊き」に身内の女を連れて行った。そして、そこで「親方」が女を気に入るのだ。


それが、小さい私を「ボク」と呼んだ、祖母の身内の物語の始まりだった。あの大きな柱時計に関わる、上品な、部落にはいない異質な、綺麗な小さなおばさんの人生を変えた出会いだった。


そして、もう一人、私は顔も知らないおばさんのことを話さないといけない。父の姉のことだ。


祖母が亡くなり、祖父も亡くなったある年忌で、父のすぐ上の姉が言った言葉から誘発された、おばさん探しは、いまだに私に何かを訴えてくる。


父はこう言った。「ほんまに姉が居たのか、俺は顔も知らんのや」と、姉は言った。自信ありげに言った。「写真もあるがな。続きを読む
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嘘をつく


子供の頃から嘘をつくのは卑怯者のすることと、私たちは学んできた。


第二次大戦の沖縄での、日本陸軍が果たした事を、教科書に「どう書くか」で文部科学省の「教科書検定」側から、また作為が施された。「軍が自決を強要した事実はない」から、「そのような誤解を与えかねない表現」に対して、教科書会社に依頼したのだと宣う。

沖縄の人々を、身内を亡くした人々を、この日本の身内を、文部科学省のたかが役人ごときが、「嘘をついている」とでも言うのか。嘘つきなら他にいる。

いったい何回、沖縄の人々を傷つけたらいいんだ。嘘つきは泥棒の始まりというけれど、面子を守るような国体もないくせに、何をいつまでも血迷うのか。

そんな政りごとなど止めてしまえ。


嘘で始めた近代化など、たかがそんな程度だから、日本の国体の「象徴」たる昭和天皇までもが、マッカーサーに沖縄を売るんだ。


日本人を守れもしない政府など、何で国民が守らないといけないのか。日本人を守れもしない国体など、何で大事にしなければならないのか。嘘つきを何で守らないといけないのか。


沖縄での陸軍のことは、その場にいた軍人だけの責任ではないから、私たちにも発言する義務と責任があるだろう。


まだ沖縄を裏切るのか。まだ沖縄を南の彼方の離島にしておくのか。いつまで沖縄を生贄にしておくんだ。いつまでも沖縄に、悪魔との付き合いを強制しておくんだ。


そんな醜さを隠すために、嘘をいつまでもつき続けるんだ。
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2007年06月21日

力を盗むもの


力を盗み、人の創造性を奪っているものを、私は邪悪としてきた。

邪悪は宗教となって古代日本に「ぬ〜っ」と取り憑いた。大国主=大物主を絶対化し、大田田根子はその脇におさまった。


蘇我一族は「聖徳太子」を祭りあげ、仏法を絶対化し、その脇におさまった。


伊藤博文はニセモノ「明治天皇」を祭りあげ、協力者を暗殺し、「現人神」の脇におさまった。


大宗教の指導者は、仏典や本尊を絶対化し、その脇におさまっている。


それは、支配の形態である。絶対化の象徴から脇者は理屈をふれまわす。脇者がいつの間にか絶対者に替わる。

それは幻想をふりまく魔法である。しかし、この魔法の本質が、われわれが生きる為の尊い経験の機会を奪っているのだから、それは生命に逆行した邪悪となる。


生まれて来た意味を、邪悪は惑わし、単一的価値観の中に入れる。それは支配の形態である。
ニックネーム 龍 at 18:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

息を合わす


私たち一人一人は個人だが、個人で生きていけるはずはない。しかし、考えてみれば、個人で生きることを今の社会は可能にしようとしてきたと言える。


それは幻想であるが、この幻想の意識体が「ぬ〜っ」と地上を飛び交っている。


最近、祭り御輿さえ、しんどくなると自分から離れたり、力を出さなくなる子供がいる。本当は、力は貰えるのだという実感を知らない。


祭り御輿には、その周りを取り囲む大人や子供たちがいる。周りの準担ぎ手は、水を運んだり掛け声をかけたりして、彼等も御輿を担いでいる。


「よう頑張った」「もうちょっとやから、みんな、力合わせていこかい!」と、準担ぎ手の方から声がかかる。小さいながら、町の神御輿の担ぎ手だ!「よ〜し!」と気合いが入る。鼻の穴をふくらませ、「よ〜っしゃ!」と声を合わせる。


力は貰える。


息を合わせて、力の出ない負けそうになる自分に気を入れて、掛け声を合わせる。息を合わせる。力が出てくる。


皆、形態は違っても、人から御輿から地域から、それぞれに複雑な理由はあっても、力を貰った。


「俺は貧乏から抜け出るために、人の何倍も働いた」、「見返したろうおもてな」という人も、歪んだ意識であっても、誰かに力を貰った。


力は貰える。間違いなく貰える。
ニックネーム 龍 at 18:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

たくさんの「もの」


私と同じような地域条件で育った人には、成程と思える事柄について書きたい。


濃密な地域で育つと、開いた子は「意識体」の影響を受け、閉じた子は拒絶の影響を受けた、と私は思う。


人がたくさんいて、人の意識が飛びかい、それらに反応して集まる霊があり、さらには動物までもが集まってくる。


漫画チックだけど、隣が何かを夕食のオカズに焼いている。「またサンマか」と、隣までその主の意識体が「ぬ〜っ」とその家まで入る。本人は「ピン」ときて、「やっぱりそうか」と納得する。


開いて育った子は、たとえば「よく気のつく子」になるが、正しくは「気のまわる子」だ。大人のやり方を見ていて、其処の状況判断ができる。母親のいう用事の内容を速やかに判断できる。


閉じた子も濃密な地域社会の被害者であり、あまりにも周りに自分が「侵されている」ことに嫌気がさしている。また、文句を言ってしまったりするから、批判され非難されて、同調することを拒否してしまう。


たとえば、ある大人は「これで良し」と言うのに、別の大人は「そうやない、こうするんや」と言う。自分の親は二人ないし一人しかいないから、その二人の「判断」が絶対になるが、周りに大人がたくさんいる為に、子供としては判断に戸惑う時がやはりある。


それならと、閉じてしまい、「我が道」を行こうと判断する。この判断はことごとく挫折させられるが、中には「芯の強い」子供はいる。



濃密な地域性と云うものは、かなりなハイレベルな意識体のぶつかり会い、と見る事が出来る。子供が子供らしく過ごせる期間は、明らかに少ない。いつまでも子供の意識を堅持することはできない。

「瞬時に判断し瞬時に対応する」ことを必然的に要求される。言葉など交さなくても、先を読んで自ら動かなければならない。


田植えの頃がそうだった。誰も口をきかず、黙々として働く。それぞれが別の仕事を始めているようにしか見えない。「段取り」の判らない小さな私は、まったくついて行けなかった。だが、田植えが始まると、それぞれの別行動が一つの流れをスムーズに生み出す。

私は正しく田植えを教えてもらった記憶がない。「見て覚えろ」と言われ、「よく見てたら解る」とだけ言われた。田植えを侮ってはいけない。あれは、実に高度な、団体作業である。流れていれば、またたく間に田植えは終わるが、流れが止まると、人間が持つ力の発揮が阻害される。つまり、休んでばかり続きを読む
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2007年06月20日

ヒゲの初代日本国総理大臣


『長州の天皇征伐』より


………伊藤博文の中に、次の突出した十項目の要素がつぶさに目に入る。

*長州藩には、徳川期約三百の藩のどれとも異なるいくつかの特徴が存在するが、その最たるものは異常に発達した「忍者」体制であろう。この忍者には、鹿島昇説によれば、上忍、中忍、下忍と、三階級あり。伊藤は、「下忍」階級出身とされる(『明治維新の生贄』)。


*吉田松陰の松下村塾門下の一人。


*長崎グラバー邸の下僕。


*藩命により、幕末、英国ロンドンに留学。しかし、このロンドン行きは、グラバーの手配による、とされる。

*つまり、グラバー(長崎)←サッスーン財団(上海)←ロスチャイルド(英国)の線で、伊藤は、イルミナティ世界権力が日本に配置したエージェント(手代)にすぎない。そこにこそ、伊藤の権力の源泉、根源があった。


*慶応二年(1866年)十二月二十五日、孝明天皇弑逆事件の実行隊長、とされる。


*孝明天皇の皇太子、睦仁親王が即位して新天皇に、そしてこの睦仁天皇を弑逆。


*慶応三年(1867年)秋、長州から、大室寅之祐を連れて来て、天皇にスリ替える、この二つの事件の実行隊長格。


*伊藤の上に、桂小五郎。この桂小五郎は、長州の忍者体制では、中忍とされている。この桂小五郎が、明治になって、木戸孝允と改名した動機は分からない。しかし、いずれにしても、この上官の桂=木戸も、西南戦争中に病重く、やがて死去すると、そのあと、伊藤は長州閥の頂点に立ち、前出のごとく大久保も片付けると、長州のみならず、かつての長州藩下忍階級の伊藤は、日本の頂点に立つことになる。


*長州藩は、南北朝時代、南朝の皇子光良親王の血統、大室家の存在を奇貨(きか=利用すれば意外の利を得る見込みのある物事や機会)とし、これを利用して、一大バクチに打って出た。


こんなことは、長州以外の藩には夢想すら出来ない。上忍中忍下忍の忍者体制を中核とする異様な長州藩によってのみ、それがあり得たのである。


※ 夢を見て、駆け足で天下を思考した竜馬もまた、ロスチャイルドの紐つきグラバーと出会っていた。

竜馬は「太政奉還」後に暗殺された。竜馬を狙う新選組ではなく、「維新」を共に成そうとする味方によって。

利用出来る者は何でも利用し、秘密を守るためには誰によらず暗殺された。それが実態であった。


伊藤博文、この悪鬼の魔手は、私たちがふりほどくしか続きを読む
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「明治天皇」


話しを簡単にしたい。だいぶ無理があるが、ここでは簡単にしたい。以前にも書いたことなので、縁ある人は遡って必要なところを見つけて読んでもらいたい。


「明治天皇」がスリカエ・ニセモノであることは、『長州の天皇征伐』太田龍著に書かれている。太田氏が参考にされた本では、「明治天皇」は南朝の流れであるとされるが、太田氏はそれを保留される。


南朝と北朝にかつて天皇家は別れた、というのが「定説」(実は少数の研究家の定説)である。そして、「明治天皇」は、この南朝の流れであるとされてきた。しかし、「明治天皇」になり済ました大室寅之祐は、その南朝の流れですらなかった事が明らかにされてきた。


すると、天皇家の血を引く人間ではなく、時の京都の公家の一部や、岩倉ら、また一部幕府側の勢力も、大室寅之祐の出自を知りながら、スリカエ天皇を「明治天皇」としたという新たな疑惑が出てくる。

また、本当の真実を知っていたのはごく僅かな人間で、多くは本当の事など知らなかったんだ、とさえ言われる。だとしたら、こんな重大な事が、ごく僅かな人間によって為された真相がますます明らかにされなくてはならなくなる。


「明治天皇」ニセモノ大室寅之祐の出自を知っていたのは、山口県の大室家の人々である。上記『長州の天皇征伐』が、新たな流れを作った。


大室家の身内の者しか知らない秘密に、最も近かった人物は誰だったろうか。大室寅之祐が違う家の人間で、ある時から大室を名乗って来た事を知る人間、それは地元の人間だ。

そして、その人間の名前を、私たちは伊藤博文と断言できる。


伊藤博文こそは何もかも、少なくとも誰よりも、「明治天皇」ニセモノ・スリカエ天皇の出自を知っていた。


伊藤の仕事は、南朝家の天皇の子孫を見張り藩に知らせることであり、長州藩には差別を事とする秘密結社「長州黒手組」が存在したという。そしてその忍者隊の元は、徳川時代の柳生家の隠密の集落であり、毛利藩に配属されて大室家の動向を探っていたのだという。


柳生忍者が大室家を見張り、その忍者として伊藤博文は大室寅之祐を発見していたのである。



一方に於いては、徳川十四代将軍家茂が毒殺され、孝明天皇は刺殺されている。幕府内部、朝廷内部と、「日本開国」へ何としても進まんとする邪悪な勢力が暗躍していた。


天皇は型であればよく、幕府開国派と朝廷開国派は至上命令が存在するかの如く、狂乱するので続きを読む
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坂本竜馬暗殺


竜馬を暗殺した犯人は、後の伊藤博文だと私は考える。伊藤は竜馬達が隠れていた宿を訪ねた。伊藤の他に竜馬の知り合いがあと二人、少し奇妙に感じた竜馬は階段を上がって来た伊藤らを部屋に入れた。


話が始まろうとした矢先、皆が座布団に座ろうとした際に、伊藤の付き人が竜馬に斬りかかった。


小説「竜馬がいく」には、安岡慎太郎が血の海で聞いた、鼻歌を唄いながら階段を下りる一味が描かれているが、だとしたら相当な一味である。


百円札は高知の板垣大助、千円札がこの長州藩の伊藤博文であった。「竜馬がいく」には板垣大助が、竜馬暗殺の犯人をさがす下りがあるが、真犯人は初代日本国総理大臣になった。


何故そんなことが起こったのか。


伊藤博文の正体に今まで誰も、いや一部の人を除いて、知らないからだ。日本国初代総理大臣は、れっきとした長州藩の忍者であった。忍者ゆえに、短い刀を使える。天井の低い竜馬たちの宿の二階の部屋で、竜馬をめがけて小刀を振り下ろせた。


伊藤は長州藩の下忍で、木戸孝允を名乗る桂小五郎は中忍であった。桂小五郎の京都の愛人宅は、忍者屋敷に改造されている。また、桂小五郎は、竜馬の良き理解者として小説・映画などで描かれてきた。


日本は大変に深刻な状況に陥っている。一言で言えば、悪魔が取り憑いたままである。


飛弾高天原天孫族の勇者、飛弾のスサナル命が、出雲に於いて打ち祓ったはずの魔は、姿を変えて出雲教という変異した形で現れた。

しかし、子孫は鬼を追い詰めさらに、鬼を神の一形態とまで認めて「同居」の可能性すら追い求め、「神仕組み」の中を生き抜いて来た。


霊的に先の戦争の背景には、日本に取り憑いたリラ人と外国に取り憑いたアヌンナキ勢力との、覇道権「争い」だったとすることができる。


だから、歴史の闇があまりにも深すぎるのだ。


霊的に悪魔勢力の干渉を受け続けた、としたところで、何も前には進まない。悪の三力は今、この国で力を発揮し続けている。


悪の三力とは
〇ヤマタのオロチ=ルシファー

〇邪鬼=リラ人

〇金毛九尾=アヌンナキ

である。


私は、天照大神が求められた「国造り」が、未だ完成していない現実を訴え、中今の私たちがこれから先どう生きるべきかを考えたい。



私は「神仕組み」を生き、理解して生き、飛弾高天原の祖先に続きたいと願う。天照大神の「ミコト」として生きたい、と願う。


天照大神続きを読む
ニックネーム 龍 at 16:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

ヒゲのおっさん


「諸君は、父母の御恩を思い感謝して勉学に励み……」と、町長の次に偉いおっさんは宣う。確かに貫禄があり、白い長いアゴヒゲをたくわえて、奥目の眼力はあった。


このおっさんが、ある日私に、珍しくこずかいをくれる。百円札を財布から出して、「どや?おっちゃんに似てるやろう?」と言った。百円札の人物は板垣大助であり、自由民権運動の創始者は確かにおっさんと同じヒゲをたくわえていた。


私は愛想をしてお金を受けとろうか迷っていると、祖母はすかさずおっさんから金を引ったくるようにして私に渡した。


祖母は弟に口をきかず、その場を立ち去ったが、偉いはずのおっさんは文句も言わなかった。祖母は人の悪口は言わなかったが、「親戚の厄介者」と自分の弟を唯一評価した祖母の言葉は、私の中に何故かしっかりと根付いてしまった。


神武天皇までもがヒゲをたくわえている。ヒゲはまるで、権力者の象徴である。しかし、本当の神武天皇はヒゲなどたくわえてはいないだろう。



侍の時代にヒゲをたくわえた偉人がいたか。日本人には異質なヒゲは、当然ながら異文化の象徴である。


私の祖母は、およそ美的なものには縁の遠い人だったが、そんな自分を良く見せようとはしなかった人だけに、この人の数少ない言葉に、私はひかれたのだと思う。そして「親戚の厄介者」は、私に多くの貴重な事実を教えてくれた。
ニックネーム 龍 at 15:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

ヒゲの記憶


父方の祖父の家に飾ってあった「明治天皇」は、大層なヒゲをたくわえていた。後年写真で見た天皇は、この絵とはまったく違った。つまり絵は、美化して描かれた宣伝用のものだという事が分かった。


また後年、神武天皇や神功皇后の絵を見るが、その顔は一貫したものだと知ることになった。


被差別部落には、「明治天皇」に対する独特の思い入れがある。「エタ・ヒニン」の身分制度を廃止したのは、「明治維新政府」である。「明治天皇」は、被差別部落に同情以上のものを持っていて、ある側近者が「エタ・ヒニンを島流しにしましょう」と言った際に、「それなら朕も一緒に行く」と言ったとされる。


私の祖父が「偉い天皇さんやで」と言った意味は、自分の写真の額を「天皇の絵の額」に並べた意味も、どうやらこのあたりにある。

その祖父の義理の弟が、祖父に農地解放の際に土地を買う事を勧めた。姉の祖母曰く、「親戚の厄介者」で議員をしていた。


普段はふんぞりかえっているくせに、選挙が始まるとペコペコ頭を下げる。私も歳を取って分かったが、あんな二面性は恥ずかしいものである。自分に力が欲しいから人に媚る。結果が出て当選となると、また、普段のふんぞりかえりが始まる。

自分の弟のその媚へつらいが、祖母には異質なものと映った。私も異質さを感じてはいた。このおっさんが、小学校、中学校の始業式や終業式に出てきて、偉そうな話をするからであった。おっさんは議長職であった。
ニックネーム 龍 at 15:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年06月19日

外伝


私は、伝えたいことは、何から話そうか3で完結されたと思う。でも、外伝を始めたのは、集中した時間を持つとさまざまな過去からの情報が精査されていき、その事が自身のカルマを気づかせているからだ。


ネット・サーフィンをして他人のブログを見ると、考え方の違いなどよりは、本当に多くの人達が熱心に真剣だなと思う。食事が終わって、寝るまでの数時間、この国ではたくさんの人達が思考している。


もう2012年は、そんなに特別な、一部の人達だけの、予言じみた、秘密めいた事ではないような気すらしてくる。「変わる」から「何かを始める」のではなく、「変わる」なら「悔いのない生き方をしよう」と、ますます自分に正直になるべきだろう。


だから私は、この外伝を、ますます自分のものにして行く必要を感じる。私は語りかける、亡くなったじいちゃん、ばあちゃんに。私の中に窮屈そうにしているもの達に、それらを理解し認め、時には判断から解放し、時には許そうと思う。


内と外から高まったエネルギーに、其処が窮屈になったなら、「お前ら出て来たらどうや」とすら語りかけたい。


外伝は支流の話だ。支流ながら、それらの小さな、くだらない、馬鹿馬鹿しい話たちが、私は大好きだ。「女とは何や?」と、馬鹿正直でいられる自分が大好きだ。


「何しに来たんですかね?」と尋ねると、「やりたい事があったやろ?」と反対に尋ねられる。


この人の多い町に縁があり居てるのは、「よう見ておけよ」と言われているのだ。見すぎると頭が混乱しそうな町で、「やっぱり人は変わらへん」と挫折したあの頃の宿題の続きを、また始めているのだろう。


挫折して私は、やっぱり壊れた。壊れた自分を責めた。責めて病気を作った。いろいろあった。


そんな親父の外伝だ。

スピリチュアル・エリートなんかはクソクラエ!わしゃ、充分に、まだまだやれる。


付き合ってくれて、ありがとうございます。
ニックネーム 龍 at 06:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年06月18日

イシはイにかへるぞ


大日月地(おおひつきくに)大神の実体は、太陽からゝ(キ)となって降り注ぐ光にあります。


大日月地大神を明かされたひふみ神示は、その解読を生涯かけて果たされた天明先生の婦人三典様は、その主役として地(くに)の役割に言及されています。


天明先生の毛筆による「三貴子」の絵は、地の神が子供を抱かれています。


大胆ながら申し上げます。「イシ」の本体たる地(くに)の立て替え、建て直しであります。「イシ」を「イ」に、生命世界を生み出された元の神仕組みへと、戻されることであります。


「イシ」は地球であります。地球の「イ」には命が宿る場があるのであります。「イ」「の地(球)」であります。


「イシはイにかへるぞ」は、「地球は元にかへるぞ」であります。故に、「夜明けの巻」であります。
ニックネーム 龍 at 14:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

ひふみ神示 夜明けの巻


ひふみ神示第十二巻
昭和二十年七月二十一日 から 昭和二十年八月十日


第一帖

イシはイにかへるぞ。一(ひ)であるぞ。 (む)であるぞ。井であるぞ。イ―であるぞ。(井に〇)であるぞ。(イに〇)であるぞ。


※ 「イシ」を「意志」とすれば、最初の一(ひ)、 (む)、井などはすべて、「イ」の働きだと解ります。

「イシ」(意志)とは、「イ」を「しる」であり、「イシ」の解読が「イ」にあることが解ります。




キと働くのざぞ、わかりたか。


※ 「イキシチニ」と展開されますから、「イ」は次は「キ」へと成る(働く)ということになります。

この神示には、「イ」と「ひ」が同じことばとして表されています。おそらくは古いことばの発音であり、「イ」が各々の発音へと変わったように、人の意志が、様々に受けとられていった様子が表されていると思います。



今までは悪の世でありたから、己殺して他人助けることは、此の上もない天の一番の教えといたしていたが、それは悪の天の教えであるぞ。


己を活かし他人も活かすのが天の道ざぞ、神の御心ぞ。


他人殺して己助かるも悪ぞ、己殺して他人助けるも悪ぞ、神無きものにして人民生きるも悪ぞ。神ばかり大切にして人民放っておくのも悪ぞ。


神人ともにと申してあろが。神は人に依り神となり、人は神によって人となるのざぞ。まことの神のおん心わかりたか。


今までの教へ間違っていること段々判りて来るであろがな。


天地和合して(太陽のような記号の中に・が入る記号)となった姿が神の姿ざぞ。御心ざぞ。


※ 「イシはイにかへるぞ」の意味が、この中にもあります。「イにかへるぞ」とは、すべてを元の世界の仕組みに戻す、ということになります。




天と地ではないぞ。あめつちざぞ。あめつちの時と知らせてあろが、みな取違ひ申して済むまいが。


※ ひふみ神示によく出てくる表現です。「取り違い」は、やっと現実世界がフォトン・エネルギーを認めるところまで、どうにか追い付いてきました。




神示よく読めと、裏の裏まで読めと申してあろが、七月の二十一日、あめのひつぐのかみ。
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春日神社


私はある時、橿原市に春日神社が多数あることに気づいた。古い道路地図で確認できただけでも、その数十社を越えた。


祖先「上」を奪われた人々は、出雲教全盛の頃、春日大社の創建にならうように、その住む土地に春日大社の分神を置いたのだろう。

神主さんとて、出雲教に疑惑をもった人々はいただろう。祖先は何もしなかったのではなく、「荒神」「天神」「春日神社」として、権力者の神に対抗するかの如く、祖先「上」(かみ)を長く祭りつづけていくのである。


橿原市内の春日神社の配置を見れば、実に整然と、人間の居住区域に比例するように存在していることがよく分かる。それらは正に、氏神である。氏神、祖先である。


歴史はこれらの事に何ら答えられない。大きな神の社より、小さな町角の氏神様にこそ、祖先のマコトは捧げられたのではないのか。
ニックネーム 龍 at 12:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

メモ書き


鴨公地区は橿原市発足前の高市郡鴨公村の区域。

鴨公村は、明治22年(1889年)の町村施行により高市郡の七ヵ村が合併。

高殿村にあった鴨公の森(伝・高市御県坐鴨事代主神社)にちなんで鴨公村とし、昭和31年橿原市となる。


※ 鴨一族が役職を与えられて、その土地を任せられ、なおかつ「事代主」(言代主)という出雲系の名前を与えられている。


「八咫カラス」たる鴨(加茂)一族は、本来飛弾高天原一族であったが、出雲教に取り込まれた。




昭和31年(1956年)の2月、高市郡八木・今井・畝傍(うねび)の3町と、周囲の同郡鴨公・真菅(ますが)および磯城(しき)郡耳成の3村が合体して橿原市が誕生した。


〇 神武天皇陵
畝傍山の北東麓にあり、正式には畝傍山東北陵(うねびやま・うしとらのみささぎ)という(文久3年1863年)。

※ 神武天皇陵は明治ニセモノ政府が今の場所にでっち上げた。

「うしとらのみささぎ」と正式には呼ばれたという。

こういう比定地を確定する際に、「専門家」から広く意見を求めただろう。古文書、伝承なども吟味されたに違いない。しかし、神武天皇陵を確定しなければならないという、その邪悪な本意があればこそ、邪悪から導かれた結果はさらに邪悪を生んだことは、はっきりと確認しなければならない。


平安京に於いて、あれほど「怨霊」の出入りする方角として忌み嫌われた「うしとら」に、初代天皇神武の御陵は確定された。この方角は、畝傍山そのものを基点として行われたのだろう。


藤原京の「うしとら」は、その方角は、三輪山であり、大神神社である。この神こそは、大和に取り憑いた悪神であった。
ニックネーム 龍 at 11:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年06月17日

藤原京


藤原京の跡地と考えられる場所を印した地図がある。神武天皇の即位した地のウネビ山(山の麓に橿原神宮はある)、東に天のカグ山、さらに北にミミナシ山があり、藤原京はこの三つの山の中に収まる。


地図を見て成程と実感する。藤原京の中心、すなわち天皇の住んだ宮を比定するために、点線で大まかに表してある。


その天皇の宮跡地の真下には、「飛弾」がある。真上には、私の祖父の出身地である「鴨公」がある。田中もあり、他にも飛弾にちなむ土地名がある。


つまり、藤原京跡は、被差別部落に近い場所に天皇が住む宮があったことになる。いや、古来より高貴なる一族の王を護るは、その一族の者の務めである。

蘇我一族は、藤原京比定地より当然に外の土地に住む。三輪に至っては、ずっと辺境の土地である。


被差別部落が、その名のように、差別・迫害・圧迫を受けるような出自の存在ならば、何故このような事が起こるのか。


天皇は住む宮を転々と変えなければならなかった。その権力ゆえに、権力を自由にしたい者たちの標的とされたためであった。


権力の、いや生きる手段さえ奪われて、権力の外で生きざるを得なくなった人々は、土地から離れる自由すら無く、先祖代々の土地において生きるしか方法はなかった。


飛弾天孫族の子孫がすべて、被差別部落に落とされたのではないにしても、大和の国の中心の宮のその近所に、いや、藤原京の真ん中に、被差別部落が残されている事が、何を意味しているのかを、私たちは突きつけられていると思うのである。
ニックネーム 龍 at 15:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

隠れて眠る豊鍬入姫の墓


同書 P93〜


倭姫を送り出した豊鍬入姫は、現在の笠村あたりで、ひたすら「八咫鏡」と倭姫の無事だけを祈って、世を忍んで、静かに生涯を終えられたのではないかと思います。


笠村の古墳は、出雲教から隠すために「女の神の墓とは絶対にいうな」と子孫に厳命して、護りとおしたと老翁は語りました。


後には荒神(こうじん)として、どなたの墓なのかわからないようにして御守りしていたと思われますが、つい目と鼻の先の三輪山ににらまれて、ドンドンと刀、槍、棒を持って攻められて村がつぶれてしまう程なので、そうなると墓を護る人もいなくなり、三輪山の思う壺にはまり尊い墓が壊されるので、村中相談のうえ、やむなく菅原道真(すがわらみちざね)を祀(まつ)ることで、三輪山の傘下に降ったと推定されます。


※ 「天つ神」を祖先は考えて、「皇神」を「荒神(こうじん)」にまた「天神(てんじん)」へと「改名」したのです。


♪「ここは何処の細道ぢゃ」「天神さまの細道ぢゃ」「どうぞ通してくだしゃんせ」「御用の無い者通しゃせぬ」と、歌われたのは、天照大神を慕い祀る人々の「願い」だったようです。


門番に居るのは、「御用の無い者通しゃせぬ」と宣うは、出雲教信仰者の可能性があります。




「八咫鏡」を護りぬかれた皇女豊鍬入姫の御陵を守りつづけて今日に至っていると思われます。


豊鍬入姫の名を隠しきって忘れられ、今では皇室の女の神様、天照大神を守った姫が、皇室の荒神(こうじん)、天照大神の墓、等々と混同していますが、天照大神は前方後円墳とは時代が違い、豊鍬入姫の御陵であると推定します。


四十代天武天皇の皇女大来(おおぐ)姫が、伊勢神宮の祭主として行かれる時、このゆかりの地で身を清めてから行かれた尊い地なのです。
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天皇の近親者が落とされた


『ねじれ古代史』山本健造 山本喜美子共著 福来出版 P125〜


『古代天皇陵をめぐる』(藤田友治と天皇陵研究会著 三一書房)によれば「神武天皇陵は被差別部落の洞村にあったのです」とあります。


また『天皇陵の真相』(住井すえ・古田武彦・山田宗睦共著)のなかで、古田氏は「早稲田大学の研究会で作られた部落の分布図がありましてね、日本列島の、それを見て驚きましたね。私が平生(へいぜい=つね日頃)教えている古墳の分布図とそっくりなんですよ」


「つまり、天皇様と部落というものは切っても切れぬ深いかかわりがある、というふうに考えているわけです」とあります。


また住井氏は「この時にね、また天皇陵がめっかったと(見つかったと)、まためっかったんだと、学校で噂が出るわけです。それがどこも未開放部落なんです。つまりエタ部落でめっかったの。エタ部落には粗末ながら小さい前方後円墳があったんです」と言っておられます。



ある虐(しいた)げられた人から次の様な事を聞きました。「ある被差別部落では明治維新まで、どこの家でも提灯(ちょうちん)を準備して、枕元に草履(ぞうり)を置いて寝て、御所(皇居)に変事あらば直ちに駆けつけることになっていた」と。

またある人は「御所で何かある時は来てくれと言われ、御所とは親戚づきあいのようなものであった」と古老が言っていたと。


「またある被差別部落の方は天皇の輿(こし)を担ぎ、天皇御大喪(天皇の葬儀)、御大典(即位式)も大正まで勤めたと」


「また、明治維新で天皇が東京へ行かれた時、ある被差別部落の人がお供をした。その時天皇は時々降りて歩かれた。沿道の人が無人の輿(こし)に恭(うやうや)しく頭を下げるのを天皇は輿の後ろから笑って見て歩かれた」そうです。


※ この天皇は、明治ニセモノ・スリカエ天皇大室寅之助ですが、彼の生まれ育った被差別部落の近親者が護衛として東京まで供をしたと思われます。


また、天皇御大喪の際に輿(こし)を担いだのは、八瀬の方々であります。「鬼の子孫」とされ、「八瀬童子」などとヤユされた人々が孝明天皇の亡骸を運ばれました。




天皇の御大典や御大喪に輿を担ぎ、御陵をお守りする、これはもう近親者の役目です。大事な父母のお墓を守ってくれと信頼して頼めるのは、やはり近い身内(みうち)です。天皇の御陵の周りに奴隷や罪人(被差別部落の人々はそのようなルーツを持つ続きを読む
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天王山


八幡宮が鎮座する男山の川を挟んだ向かいに、あの天王山がある。天王山は、明智軍と秀吉軍が天下取りの闘いをした有名な山だ。


母方の一族は、明智軍側の「足軽」だった可能性がある。山崎合戦は1582年の頃だ。


その一族の「姫」を妻にした祖父は、妻方の親戚に閉口していたようだ。理由は、その気位の高さである。


明智は将軍足利家と血の上においてもつながっていたとされ、信長が本能寺において自害に追い込まれる背景に、足利―皇族ラインを指摘される方は多い。

川を越え、山を分け入った辺ぴな土地に、何人かの足軽たちは辿り着いた。かくまわれた、そう言った方がよい。父方の祖父の家にも、短い足軽が持つような槍があった。もしかすると、何人かで相談をして、京のミカドにたてつく信長勢に対して、一矢を報いようとしたのかも知れない。

歴史は権力闘争の側面ばかりを強調して描くが、その土地、土地における一族のルーツを解明できれば、日本人がいかに「情」を重んじそれを守るために動いたかがよく分かるだろう。



秀吉はその関係をよく理解しており、ゆえに「刀狩り」を実行する。ミカド―民衆に厳然と存在した「縦糸」を分断する。それは、権力者の判断として正しい選択であった。


普段は惨めな暮らしを余儀なくされた民衆が、こと京のミカドのためになら命を賭けて戦うというのは、侍には不気味なものであったろう。いや、侍としてはたぶんこうだ。「お前たちは何も知らんのだ。如何に京の都が腐りきっておるか」。


信じられない話しだが、京のミカドに何かあれば、何はさて置き都に駆け登り、ミカドを御守護せよ、そんな祖先からの言い伝えを守ってきた里が