安政元年(1854年)、岩倉は正式に侍従となり帝とは思想的にも共鳴する。天皇は政治や外交に興味を覚えて人間が変わっていったが、岩倉は孝明と幼い日から続いたホモの情愛から抜け切れなかった。
34才のとき日米修好事件(調印は1858年)で大原重徳と組んだり、37才のとき皇女和宮の降嫁(嫁入り)に従って江戸へ行って公武合体を推進したのも、いとしい孝明との情愛ゆえであった。
それなのに天皇はやがて女性に興味をいだくようになると、岩倉との仲を絶とうとした。1862年、天皇も30才近く岩倉は40才代に近い、人生50才の時代であった。
老女は「天皇が岩倉をうるさいといって激怒するまでの10年間、この四条大橋の密室は二人の密会の場で、岩倉が絶縁を命ぜられてからは主に孝明の専用だったが、孝明さまが落命したのは下京区だ」といって紙に地図を書いてくれた。
数日のち私は地図を頼りに教えられた場所へ行って、土地の古老をつかまえて何気ない風で昔のことを聞いた。老人は耳が遠いらしく幾度も耳をつき出しながら私の質問をたしかめ、大声で当時のことをさも目撃したように喋りまくった。
殆んど生前の長崎稲佐の渡辺章綱から聞いていた話と同じだったし、また中京区の老女から聞いた話とも同じであった。
平成2年、私は再び下京区のその場所へ行った。ビルディングや風呂屋が立ち並んですっかり様子が変わってしまったが、伊藤博文らの忍者部隊が事がすんでから身体についた天皇の血を洗ったという川は、殆んど同じ水量で流れていた。
私は、天皇暗殺の現場として、渡辺老女に逢うまでは紫野、知恩院などの方面を想定していたが、堀河紀子の妾宅は下京区内であった。現在は三ノ宮通り上ノ口上ル岩滝町と変わって、地番不詳である。
(つづく)








