2007年03月29日

休憩


しばらく休みます。思索致します。


感想などありましたら、何でも書き込んでください。
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2007年03月28日

鉄鏡は飛騨国の高位のしるしである!


神武天皇が大和にお入りになさると、飛騨の御先祖への報告祭が宮村の位山で行われたのです。その後、代々の天皇即位の式の笏(しゃく)は飛騨の位山の一位(いちい)の木で謹製(きんせい)されて献上され続けてきたのです。


それで飛騨と大和は本家と分家の関係で最も近い血縁であったので、中国から大和朝廷へジャンボ鉄鏡が渡来した後に、皇女が嫁入りの時に持参したか、高官の婦人が持参し愛用したかのどちらかと思います。


なんとなれば、いくら飛騨から行った大工が立派な建築技術をもって奉仕しても、そのような貴重な宝物をくれるはずがないと思うのです。


この大鉄鏡が飛騨に移入された頃の飛騨の中心は、宮村ではなく国府に移されていたと見るべきだと考えます。その頃は国府町名張にある一之宮神社あたりが飛騨の中心地となっていて、その当時(七世紀頃)高貴なお方が葬られるときに、副葬品の直刀二振り、鉄鏃、金環(きんのわ)、銅鈴など数十点と共に、この鉄鏡が桐箱に入れられて古墳に納められたものと推定されます。



東北地方の縄文文化と飛騨文化の交流口は乗鞍岳麓の峠であり、その頃の飛騨文化の中心は乗鞍岳の麓の丹生川あたりであり、降雪時代になるとしばらく宮村の飛騨一之宮に遷(うつ)り、その後飛騨各地を転々して、政府が大和に移されてその後、飛騨の中心地は国府町名張の一之宮であったと推定されます。


この地に日本にはたった一つしかない最大級の鉄鏡が保存されていても不思議ではないと私は思っています。


また、一千二百年前、国府荒城(あらき)郷から猪麿(イノマロ)という飛騨の匠が出られ、朝廷から位を賜ったという口碑も残っています。これらも大鏡となんらかの関係があったかもと思われます。


いずれにしても、私の郷土飛騨の国府に、こんな素晴らしいロマンのあることを誇りに思っています。いや、飛騨の先進性を証明するものとして皆の喜びであります。
ニックネーム 龍 at 22:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

植木等さん


昨日亡くなられた、植木等さんは三重の「宮村」のご出身であると、新聞で知りました。

三重から奈良にかけては、飛騨の国の地名が数多く残されています。字は変わっていますが、祖先が大事にしたことばは子孫が残したのでしょう。



B 飛騨へ大鉄鏡が入る理由の推定

飛騨の老翁の語るところでは、

「鈴鹿へ下りて行った山本高山土公命の子孫に山本船匠(フナツクリ)命という人がいて、それまでの舟を工夫して何倍も大きくして、波が当たっても壊れず、麻の帆をかけて走れるものを作り出し、その舟のおかげで猿田彦命の時代に皇統命(スメラミコト)の邇々芸命達の一行を瀬戸内海の大三島まで運んで、それから大三島の人々の力添えで、はるばる西の九州へ行くことができたのだ」ということでした。


飛騨の古代の人々は、ただ食物の採集にあくせくするだけでなく、毎日の先祖への礼拝、大自然への感謝の日抱きの御魂鎮めにより心を練り清め、豊かにして、石冠や御物石を作るだけでなく、木造建築文化を生み出し、下界に降りては船大工となり、神武天皇の大和朝廷を樹立されたときは、大和の橿原に降りて行き御殿を建てる仕事をして、後世、大宝律令が制定されたときに、税制の中に飛騨の匠として認められる遠因になったと推定されます。


そして、次に書くような中国で製作された最高級の大鉄鏡、謎とロマンを秘めた「き鳳鏡」が飛騨に入ってきたのではないかと、私は推定しているのです。


C 神武天皇の橿原の都近くに、飛騨の乗鞍岳と丹生(にゅう)川がある


今までに詳しく説明してきましたごとく、飛騨と大和とは深いつながりがあるのです。


橿原神宮のすぐ近くに猿田彦命の子孫が住み込んだと思われる山本町があり、神武天皇が大和においでになり都を開かれた時に、飛騨から降りて大工をしたり御守護した人々の住みついた飛騨町、上飛騨町があります。


その付近には飛太郷、飛騨庄、飛太庄、飛田、日多、比田、斐田、日高(ひだ)があり、


奈良市には疋田村、疋田城、


北葛城郡には疋田村、

桜井市には疋田神社、

生駒郡には蟇田(ひだ)、


城上郡には辟田(ひだ)郷、吉野山近くには飛騨など、


漢字渡来以前はみな「ひだ」と呼んでいたのに、後世に漢字を適当に当てはめたのです。


岐阜県の飛騨でも、日抱、斐太、日田、斐陀、火田、日高、稗田など適当な文字を当てはめて使われていたのです。


※ ある日、続きを読む
ニックネーム 龍 at 21:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

飛騨国府町 一の宮の古い鏡


「明らかにされた神武以前」P263〜


A 飛騨高天原の延長 国府!

神武天皇が大和朝廷を創立されてから数百年後になると、飛騨の政治の中心(高天原)は宮村から国府町に移されたと思われるが、その証拠とみられるジャンボ鉄鏡(直径二十二・二センチ、厚さ四ミリ)が発見されました。

飛騨出身の考古学者として有名な八賀晋氏(三重大学)のエックス戦撮影を通しての研究によれば、約一千八百年前の後漢から六朝時代、四、五世紀の中国製「き鳳鏡」(キの漢字が見当たらず)と鑑定されました。


八賀教授は「中国で作られた鉄鏡が副葬品として古墳に入れられるまでに約二百かかっており、この間に鉄鏡がどのようなルートで海を渡り飛騨に入ったか、また鉄鏡の果たした役割なども明らかになっていないが、飛騨の匠は大宝律令等の文献に出てきており、中国から大和朝廷を通じて飛騨に入ったと考えられる。これほど貴重な鏡が飛騨で出土したということは、七、八世紀頃、既に飛騨の技術が高く評価されており、またそれは、突然に認められたものではなく、それ以前から大和に出かけ働いた飛騨の匠の生産力が中央で認められていたことになる。その巨匠がもらって帰ったと思われる」と申しておられます。

我が国で見つかっている十二枚はいずれも白銅製で、鉄は当時貴重で、中国でも鉄のき鳳鏡は二、三枚しかなく、これまでに発見された最大でも直径十六センチでした。ところが飛騨で発見されたものは、それより直径が五・二センチも大きいものです。この鏡の発見の意義はまことに大きいと思います。


※ 名張一之宮神社
岐阜県吉城郡国府町名張地区にある神社。

このお宮の傍らにある古墳より1800年前ごろ、中国で製作された大鉄鏡が出土しました。中国にも三枚程しかないもの、日本では唯一のものです。

いかにして飛騨の山奥に移入されたか、テレビ新聞でも騒がれて学界の問題になっています。


と、説明にあります。
ニックネーム 龍 at 20:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

あらっ!


また、間違えて張り付けてしまいました。


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こちらへ
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2007年03月27日

シラギ神が種をまいたから日本の山に木がある


「破られた二千年の魔法」P78〜


シラギ崇拝教(出雲宗教)は何を説法したのか?『日本書紀』に「イソ・タケルはたくさんの木の種を持って降り、朝鮮には植えないですべて持って帰り、九州からはじめて日本中にまいて殖やして、全部青い山にしてしまった」とあります。


イソ・タケルとは朝鮮の新羅(シラギ)のソ氏出身の英雄です。


これは大変なことを言っているのです。人間は、木や草がなければ一日も生きてはいけないのです。木で家を作り、菜っ葉を食べ、菜っ葉を煮たり焼いたりする時は木を燃やします。木がなければ生きてはいけないのです。


この木があるのは「朝鮮の新羅の神、イソ・タケルが木の種を日本中にまいてくれたからである」と『日本書紀』に書いてあるのです。…………………


日本の古神道の氏神は、谷(昔は沢といった)谷を拓いてくださった先祖であり、血筋の流れを川にたとえて、川の上流を川上、下流を川下と言うように、自分より先祖を上(かみ)と言って敬って感謝したのです。先祖を感謝し、大自然を感謝したのです。


ところがイソ・タケルが木の種をまいたのなら、谷を切り拓いてくれた先祖の上に立つ神である、ということになり、日本中のどの神よりイソ・タケルの方がより偉い神であるということになるのです。これは日本の古神道とは似ても似つかぬ異質の宗教です。………


『古事記』には次のようにあります。


故れ其の大年神、神活須毘神(カムイクスビの神)の女、伊怒比売(イヌヒメ)にめとひて生みませる子


大国御魂神

次 韓神

曾富理神(ソホリの神)

次に 向日神(ムカイの神) (出雲の向かいは大陸)

次に 聖神(ヒジリの神)


五柱 とあります。


大年神とはスサノオの子とありますが、イソ・タケルがおそらく新羅の女に産ませた子供で、本当はシラギ風の名がついていたのに、大年などと日本風にかえてごまかしたと筆者は見ています。(理由は後で)


大年神の子はまさに外国の神々です。


韓神とは朝鮮の神です。曾富理神とは朝鮮のソウルの神です。曾富理(ソホリ)がソウルであるとは他の学者も言っています。
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神武天皇の妃にまつわる艶話


「日本起源の謎を解く」P293〜


こんな空気の中で『日本書紀』が(720年)編集されたのだから、神武天皇の后は出雲神道では第一の知恵者といわれる事代主(コトシロヌシ)命の娘ということになっています。


ところが、712年編纂の『古事記』では、神武天皇の后は大国主命の娘ということになっているのです。


そして、大国主命が、この娘を孕(はら)ませる時の様子が滑稽におかしく、『古事記』中巻神武天皇のところに記されているので、それを意訳して掲げて見ます。


「三嶋ミズクヒの娘で名はセヤタタラ姫、その容姿が美しかったので、美和(三輪山)の大物主(大国主)が瞳み惚れして、その美女の大便(かわや=トイレのこと)に入れる時に、丹塗りの矢に化(な)りて、その大便(かわや)の溝流下より、その美女(おとめ)の富登(ほと=陰部)を突きなされたので」



「その美女は驚いて立ち走り、その矢を水ですすぎ、その矢を持って寝床に置いたので、その矢は忽(たちま)ちに麗しき男に成りて、すぐその美人にめあいて、生みませる御子の名は富登多多良(ホトタタラ)伊須須岐(イススギ)姫命と申す」


「この姫の亦名(またのな)は比売多多良伊須気(ヒメタタライスケ)餘理比売(ヨリヒメ)と申し上げる。これは富登(ホト)と言う事を悪(にく)みて後に改へた名である。(中略)」


「伊須気餘理姫の家は狭井河(さいかわ)の上にあった。神武天皇は伊須気餘理姫のもとに幸行でまして一宿寝ましき。(中略)後にこの姫が宮内に入られた時に天皇は御歌をよみ給うて」



「「あしはらの、しけこきをやに、すがたたみ、いやさやしきてわがふたりねし」と、その後三人の男子が生まれ給う、(中略)その末子が皇位(スメラのくらい)を継ぎ給ひき」


あの頃の結婚は自然な姿でなされた事が、ありのままに描かれて興味深いのですが、その中に神武天皇の后が、事代主の娘であったり、大国主の娘であったりはしているが、どちらも出雲の神の娘になっているのは、奈良時代は、大和の都は出雲神道一色に塗り潰されていたからなのです。


※ いや、私は、これは姫を暴とくしていると思う。
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神武天皇を汚すことは許されない


皇統命(スメラミコト)邇々芸命(ニニギのミコト)は、大三島の大山祇命(オオヤマズミのミコト)の娘木花咲耶姫(コノハナサクヤひめ)と結婚されました。


しかし、大山祇命を九州薩摩半島の人とし、従って姫の出自も変えられて伝えられています。


二人の子供で皇統命の鵜萱葺不合命(ウガヤフキアエズのミコト)は、玉依姫と結婚され、後に神武天皇となられるサヌ命をもうけられます。


しかし、また例のごとく、玉依姫はサヌ命の育ての親で、サヌ命を産まれた人は別の人だと伝えています。


これらの事をいちいち書いていくと、本当に何が何だかわからなくなっていきます。「明らかにされた神武以前」には、神武天皇の母玉依姫が日本に外からやって来られた一族の姫である可能性を示されています。


たぶん「天皇崇拝主義者」には納得のいく話ではないでしょうが、私は、祖先が正しい選択をされたと思います。少なくとも、天照大神と高木命の教えを守られ、政略結婚され、外からやって来た民を日本を守るためにまとめられたからです。


「明らかにされた神武以前」には、


「邇々芸命は、外国の人を毛嫌いしたり拒否しないで和の心で包容して、血も文化も同化していく心の広い国際人であったことは、今日の日本を築く基礎となったと推定されます」とあります。


私は玉依姫の「玉依」を、首飾りを二重三重にして身に付けておられた事から、名前がつけられたのではないかと思います。そして、高良大社の祭神となられた「玉垂命」は、首飾りが垂れ下がる様を名付けられたように思います。



こうした代々の皇統命(スメラミコト)の出自隠しは、やはり、「我等こそがこの国を治める」という、天孫族とは反対の勢力=出雲宗教勢力の事実があったからに他ならないでしょう。


天孫族を敵とし、ことごとく歴史をねじ曲げる。出来るならば、出雲の祖先たちがスメラミコトの祖先であると、彼等は主張し続けたわけです。


名前を五つ六つ替える等は当たり前、サヌ命を産まれた方は実は別のお方であった、なども平気のようです。そして、何と!神武天皇の妃まで侮辱します。嫌らしく低次元な話の中心人物として描くのです。


これらは操作・洗脳です。少なくとも大和の朝廷につかえた豪族たちに、作り話を植え込み吹聴した跡が見られるのです。


神武天皇から二百年、祖先の願いを忘れた末裔たちは、こんな話を信じるまでになってしまいました。
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ニックネーム 龍 at 21:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

「箸墓」古墳


箸墓古墳は、吉備地方(古墳時代の広島辺り)で発達した葬送用具の特殊器台形土器や特殊器台形埴輪(はにわ)などが埋葬されており、こに墓の名は「箸墓」とさもモモソ姫(倭迹迹姫)の墓のように聞えますが、この古墳は崇神天皇や垂仁天皇の古墳より大きく、一皇女のモモソ姫の古墳とは考えられません。これは大田田根子が造った墓と推定します。


※ 箸墓古墳、各天皇陵とて仮説の認定にすぎず、モモソ姫も八代天皇の皇女、いやそうじゃない、など定説にはなっていません。つまり、今だ古墳時代は謎なのです。




『日本書記』に「お前は私に恥をかかせた。今度は私がお前に恥ずかしい思いをさせよう」とあり、さらに「この墓は昼は人が造り夜は神が造った」とあり、これは墓が二重になっている事を暗示しています。


モモソ姫(倭迹迹姫)が大田田根子の子供を堕ろそうとして死んだ事件は、三輪山の神主である大田田根子が大恥をかいたのです。これが大評判になり、モモソ姫の墓を哀れんで世間では「箸墓」と呼んでうわさをするのです。


田根子は穴があったら入りたい大恥話です。それで、それを打ち消そうと、噂の種である「箸墓」を壊してモモソ姫に恥をかかせたのですが、死者の墓を壊せば、しかも人々が哀れんでいる姫の墓まで壊せばますます田根子の評判が落ちるので、そこに大きな田根子の墓を造ったのです。


田根子はこうして権力を誇示したのですが、多くの人がいつまでもモモソ姫に同情して「箸墓」と言っているうちに、いつしか田根子のドデカイ古墳が「箸墓」と言われるようになり、本当は田根子の墓なのに、世間の人々が「箸墓」と呼ぶためにモモソ姫に墓を取られた形になったのです。


本当は大田田根子の墓ではないかと思います。この頃すでに三輪山の大田田根子を中心とする勢力は、天皇をはるかにしのぐ力を持っていたと推定されます。『日本書記』にこの古墳について由緒や築造の様子が詳しく書かれている事は、他の古墳では見られない事から意味深長です。


この頃すでに神主田根子は、田根子の祀る神を背景に絶大なる力にのし上がっていたと推定されます。



大田田根子は三輪山をまことにうまく騙し取りました。そして『日本書紀』にまで堂々と正当化してあります。これは、「ごまかし」でも「ウソ」でも、世論が言っていることが『日本書紀』に書かれたので、大田田根子は、田根子の祀る神様信仰で圧倒的に世論を味方につけてしまって続きを読む
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2007年03月26日

私の立場


私は組織には入っていないし、そんなものには全く興味はない。組織の弊害は知っているし、そんな器の人間ではない。組織的な人間ではない。


しかし、そんな偏見も真理の前では何の関係もないと思っている。私は自分が得た組織への「偏見」を捨て去るつもりはないが、その偏見におもねるつもりもない。


従って私は、何処にでもいる一人の親父で、パチンコでは海物語が好きな半世紀を生きた人間だ。このブログでの出会いは大事にしたいが、何かをやろうなどとそんな邪魔くさい事は考えない。


こんな事を書かないでも、わかってくれている人はいると、解っていながら、一定書かなければならない現実に閉口している。


私は光を展げたい。光とは情報だ。その情報を貴方がどう利用し、どんな真実を見ようが、それは貴方の自由だと考える。
ニックネーム 龍 at 18:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

山本両氏の御紹介


さて、山本健造、山本貴美子氏の御紹介を、本から転載してみる。両氏の他、飛騨高天原天孫族の『やまと民族の古代史』の著者、中西正矢氏もおられる。

〇 山本健造

大正元年十一月生まれ。少年時代から神秘現象を研究し、十六歳にして超能力を得る。以来多くの難病者を救う。

十九歳の時、神通力の奥にひそむ六次元弁証法のインスピレーションを得る。

小学校卒業後、逆境の中で中学講義録や哲学講座を独学し、四十二歳で日大文学部(哲学専攻)を通信で卒業、小中高校教員免許状を十一枚取得、高校倫理社会の教師を最後に三十八年間の教員生活を退く。


六十一歳で高野山大学聴講生、六十二歳で高野山大学院密教科修士過程入学、六十四歳で文学修士の学位を受く。

問題青少年矯正治療等の長年の教育上の功績により昭和五十八年三月、学術研究財団法人として「財団法人飛騨福来心理学研究所」許可される。昭和六十二年アメリカの学会に招待されて、研究発表した。



〇 山本貴美子


昭和ニ十三年飛騨高山に生まれる。

学窓を出て直ちに仏道修行を志し、自らの修行の傍ら多くの病人を治したが、自らの身体は極度に衰弱し、失意のなかで山本健造氏に教えを乞う。


行法の誤りと、世界観の誤りを指摘され、以後山本健造氏の指導で健康を回復させると同時に、深く心理学、哲学学を学び、氏の六次元弁証法に精通し更にそれを発展して研究を進めている。特に、六次元弁証法の立場から理論物理学に深くメスを入れ、斬新な論文を雑誌『たま』(No.69)に発表している。


女史の周りでは頻々と超物理現象や、アポーツ現象が続出するスーパーパワーの保持者であるが、親しみ易く極めて謙虚で純粋な人柄である。又、義理堅く、その人のためとあればどこまでも親切で、私利私欲の全くない誠実なる魂の持ち主である。師と並んで、あらゆる迷信を超越し論破する境地に達している。「スーパーパワーは、私をはるかに凌いでいる」と、師の山本健造氏自らが脱帽し称賛しているところである。現在、女史の精神分析とスーパーパワーで、多くの人が救われている。
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大田田根子は何者か?


天皇は大田田根子を呼んで「誰の子か?」と聞かれると、「父を大物主、母をイクタマ姫」と答えたので、大田田根子を祭主にして三輪山に大物主神を祀らせた。


大田田根子は最初の大物主から八代目の子孫です。母親は陶邑(すえむら)の陶津耳(スエツミミ)の娘です。陶邑に新羅系の人々が入って焼き物の技術を教え、その邑(むら)の娘に産ませた子が大田田根子ではないでしょうか。


この陶邑(すえむら)は朝鮮半島からもたらされた新しい技術で、五世紀から日本最大の須恵器(すえき)の生産地になるのです。


田根子は酒造り、陶器、薬等々において新技術をもった新羅系の人と推定されます。三輪山に最初に祀った大物主神とはシラギ神です。田根子はその神の子孫です。



田根子は出雲の大国主の子孫であると新撰姓氏録にあります。これはいったいどういうことでしょうか。


田根子は新羅の血と大国主の血と両方持っているということです。つまり、大国主が新羅の女に産ませた子の子孫ということなのです。


大国主は言わずと知れた日本で一番評判の悪い男、葦原(日本)醜男(しこお=つまり、日本の女癖の悪い男という意味)とあだ名された出雲の男なのですから、ここでは大国主の子孫などと言うと恥ですから伏せて、父方は新羅から来たことを強調したのです。………


ここまで解れば、疫病の流行につけ込んで、最初から御魂代(みたましろ)を奪うつもりで、宮中から天照大神とニギハヤヒ(の御魂代)を外に出すように仕掛けたことがはっきりしてきました。


そしてニギハヤヒの御魂代を奪うことに成功したのです。ヌナキイリ姫(最初にニギハヤヒの御魂代を祭る役目をされた姫)は御霊代を取られたのでは、髪が抜ける程心配をするはずです。


この後、大田田根子一派は天照大神の御霊代の「八咫鏡」、これを持つ人が天皇なのですから、これを奪うため命がけでつけ狙うことになるのです。


そして、モモソ姫(倭迹迹姫)は田根子の「正体と企み」を知ったのです。モモソ姫が子供を産めば、田根子の子が天皇の孫になります。将来、天皇になる可能性がわずかでもあり、少なくとも重臣になるのです。政治に携わるのです。それで、皇女であるモモソ姫は絶対に産むことが出来なかったのです。さすがは皇女、潔いことです。


※ 事は天皇位の乗っ取りにまで及ぶと、著者は言われる。著者の洞察は「箸墓」古墳の主が、実は大田田根子ではなかったかと続きを読む
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春の陽気


しかし、柔らかい陽の中に置かれると元来がいい加減な人間だから、眉間に皺を寄せて想う事がアホらしくなってくる。


古本屋さんで倉本聡さんのエッセイ集を買った。なんと、百円である。もう一つの細木数子を書いた「魔女の履歴書」は、八百円した。しかし、これはたぶん、気を入れて読まないと感じている。実際この手の本は、立ち読みで充分なんだけれど、親父年齢を考えて、少しでも格好悪い事はしたくない。充分に外見は見苦しく、動きもギコチなくなった今、それぐらいは格好付けても許されるべきだ。


しかし、読みかけの本で一杯である。我が家の猫の風ちゃんの寝る場所まで占領してしまった。


そんな見映えの悪い部屋から出て、自転車の散歩をして、買い物をして帰る。


眩しい光が暖かい。暖かい。


倉本聡さんの詞を載せよう。


雨ダカラト飲ミ
風ダカラト飲ミ
雪モ夏ノ暑サモ飲ム口実

丈夫ナ胃腸ヲモチ
欲ハアリ
決シテアセラズ
イツモニヤニヤ笑ッテイル

一日ニ白米四合ト
ミソトカナリノ野菜デモ足リズ
アラユルコトニ
ジブンヲ目立タスベク
ヨク研究シワカリ
ケド目立チソコナイ


野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
カラートタンノ家ニイテ

東ニ不審ナ火事アレバ
行ッテタダワイワイサワギタテ
西ニ疲レタ未亡人アレバ
下心カクシテヤサシクシ
南ニ落込ンダ男アレバ
行ッテサラニソノ足ヲヒッパリ
北ニケンカヤソショウガアレバ
面白イカラモットヤレトイイ


ヒデリノトキハステテコ一枚
サムサノフユハガチガチフルエ
ミンナンニ純粋ナバカタレトヨバレ
呆レ果テラレ
デモ苦ニハサレズ

ソウイウモノガ
ココラニハイル
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2007年03月25日

三輪山の頂きで新羅を拝んだ


「破られた二千年の魔法」から P52〜


三輪の社はお山が御神体で、拝殿があるだけです。そのお山の頂上には奥津磐座(おくついわくら)があり、高宮神社があります。高宮神社はかつて日向(ひむかい)神社と言ったのです。日向は朝鮮の新羅(しらぎ)に向かう意味です。


三輪山麓の奥垣内遺跡からは磐座(いわくら)とともに須恵器大甕(すえきおおかめ)・滑石製臼玉(うすたま)・外来の新羅系陶質土器(とうしつどき)が出土しています。(本書は三輪山文化研究会編『神奈備(かむなび)大神(おおみわ)三輪明神』を参照させて頂いています)


ここで祭りをした人々は、新羅系土器を使う人が、祖国の新羅に向かって拝んだのです。『古事記』に御諸山に海から来た神を祀ったと書かれていることと符号が合うのです。そしてその神は朝鮮の新羅の神です。


※ 「諸国一の宮」(移動教室出版事業局・入江孝一郎)には、


「拝殿と禁足地の間は、三つの明神型鳥居を一つに組合わせた古い形式をつたえる重要文化財の三輪鳥居があり、人と神の境になっている」


とある。長い間山が「禁足地」にされた意味は、この神祭りを隠すためである。「三輪鳥居」は出雲宗教神のシンボルであり、やはり、桧原神社の三連鳥居は、「禁足地」の封印の鳥居である。


さて、出雲神官はどんな神祭りをしたのだろうか。




『日本書紀』で崇神天皇が大田田根子に大物主を祭らせた日、イクヒがお酒を天皇にさし上げて詠んだ歌が、


この神酒(みき)は私が造った神酒ではありません

倭の国を御造りになった大物主が醸造された神酒です



この歌は意味深長です。倭の国をお作りになった大物主とは、天皇が思う大和の国を開拓された大物主とはニギハヤヒのことなのです。


※ 大物主とニギハヤヒは違う、そう思われ、なぜ崇神天皇がそう思ったのか?疑問の人もいるでしょう。


ニギハヤヒ命を大物主だと天皇に思い込ませたのは、本当に誰なのでしょうか。亡くなった人が神となるというのは、出雲宗教の特徴だとしてもいったい誰なのでしょうか?



ところがここで詠っている人達は、朝鮮の新羅に向かっているのです。


さらに大物主の醸造した酒は、自分がいままで父から教えられて造ってきた日本の酒ではありません。「大物主の国の人が造る方法で造った酒です」と言っているのです。新羅の醸造法の方が日本の酒より美味い、と言っているのです。

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民も大和を離れる


崇神天皇五年、六年に疫病によって、大和の民が大和から離れます。役人の言うことも聞かず、半分以上が離反した、と『日本書紀』には書かれています。

民が大和を離れた理由が、果たして疫病だけにあったのか疑問です。何故ならば、病気になった人間は、本来は養生するためにじっとするはずです。家も捨て土地も捨て、長年苦労して開拓した大和を捨てています。


「それほど、疫病が凄かったんだ」と思う人がいるかも知れませんが、凄かったならば、なぜ天皇や豪族たちは大和から離れなかったのでしょうか?


誰でも命を脅かす程の疫病が流行したならば、金持ちも貧乏も関係はありません。それとも、金持ちは誰か素晴らしい名医にでも治療してもらったのでしょうか?



そして、大和は大田田根子が現れて、大物主が落ち着いて、疫病が収まるのですから、こんな不思議な話はありません。大和の民が離れたのは、疫病のせいだけではなく、大和の出雲神にかぶれてしまった豪族たちの圧政によるものと考えた方がよく、崇神天皇が自ら認めるように、政治が混乱していた、と考える方が自然です。


宗教が流行する原因は何でしょうか。


それは、いつだって混乱です。崇神天皇自身も混乱されています。占いが流行するのは何故でしょうか。それも、いつだって混乱です。


この混乱した状況の中で、出雲宗教という集団的な霊がかり現象が広められて行ったのです。混乱を造り出し、混乱した人間に憑依して更に混乱を誘発して行く、民はこの犠牲にされたのです。


こうした集団的な霊がかり現象の大和に、今までとは違う形の「神」が現れるというのも、まるで作られた現実のようです。


私たちは日本の歴史を見ていますが、世界の歴史に学べば、より鮮やかに、こうした魔法を知ることが出来ます。戦いを誘発してきたものは、この集団的な霊がかり現象でした。

今もそれは有効に生きています。争いの火種となって、世界各地に混乱の種は蒔き散らかされています。憎悪のエネルギーが蒔かれ、人々のカルマという爆弾に作用し、人々を洗脳・支配して行動を誘発させています。


若者は戦争ゲームに溺れ、不発弾に点火され、急に過去の出来事を思い出し、キレて、暴力行為に激しく導かれています。若者だけではなく、あらゆる層の人々が急にキレます。

内部のカルマに点火されるのです。集団的霊がかり現象です。



こうして大和を見れば、出雲宗教の本質が見えて続きを読む
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天皇が大和を離れる


「縄文日本文明一万五千年史序論」太田龍 成甲書房

P159〜


崇神天皇の御代に、出雲教は三輪山乗っ取りを完了した。これが古代史の核心である。


この史実が見えないように、出雲勢力によって巧みに隠蔽されてきたので、今の今まで、正確には平成三年、山本健造『日本起源の謎を解く』、平成四年、同『明らかにされた神武以前』、平成四年、同『裏古事記』が世に出る前は、誰一人として、その核心に到達することが出来なかったのである。


中西正矢著『やまと民族の古代史』では、人皇初代神武天皇から第十一代垂仁天皇まで、皇居は、奈良県橿原市、御所市、大和高田市、田原本町、奈良市、桜井市(いずれも現在)を、代が変わるごとに転々としていたが、ところが、第十二代景行天皇から、皇居は大和を離れると述べられる。


〇第十二代景行天皇

滋賀県大津市穴太


〇第十三代政務天皇

同上


〇第十四代仲哀天皇

福井県敦賀市


〇第十五代応神天皇

大阪市中央区上町台地

〇第十六代仁徳天皇

大阪市天王寺区東高津町



この遷都はなぜか、それは何を意味しているのか。歴代天皇は、出雲神信仰に占領された大和から逃げて歩いたのだ、と山本説では解釈されている。これが正しい見方である。


わたしはこれこそ、二千年の間、隠蔽されてきた歴代の深層であると思う。


P160まで
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「その神」が判明した


『日本書紀』に戻ります。


崇神天皇五年、国内に疫病多く、民の死亡するもの、半ば以上に及ぶほどであった。


六年、百姓の流離するもの、或いは反逆するものあり、その勢いは徳を以って治めようとしても難しい。それで朝夕天神地祇にお祈りした。


これより先、天照大神・倭大国魂の二神を、天皇の御殿の内にお祀りした。


そしてその神の勢いを畏れ、共に住むには不安があった。そこで天照大神は豊鍬入姫に託し、大和の笠縫邑に祀った。………………


「その神」は、大物主神です。


疫病から始まった大和の厄災は収まらず、崇神天皇は困っていた様子です。「朝夕」「天の神」と「地の祇(神)」に「お祈りした」とあります。


そして、「その神」がこう言うのでしょう。「吾を敬い祭れば、きっと自然に平らぐだろう」。だから、崇神天皇は「その神の勢いを畏れ、共に住むには不安」を感じたのです。

天照大神のしるしである宝鏡は笠縫村に、ニギハヤヒのしるしはヌナキイリ姫に預けて祀られました。崇神天皇の厄災に関する気持ちを『日本書紀』はこう書いています。


「朝廷に善政無く、神が咎(とが)を与えておられるのではないかと恐れる。占いによって災いの起こるわけを究めよう」。


「朝廷に善政が無い」と天皇は感じていて、「占いによって災いの起こるわけを究めよう」と言ったとされます。『日本書紀』の続きでは、天皇は八十萬の神々をお招きしてト占された。この時に神明は倭迹迹姫(やまとトトひめ)に神がかりして言う。その神が大物主神であると、そう書かれています。


話を簡単にします。


天皇は厄災の原因が政治にあると考えられていた。自身が天皇位を継ぐ前に、ずいぶん権力争いがあり、朝鮮半島からの脅威もあって、それらを「神が咎を与えておられる」とまで思いつめられた。


占い師に頼りト占をする事も度々であった。占い師の言うことを聞き、「八十萬の神々」をお招きしたら、大物主神が現れた。倭迹迹姫に神がかった神は、「若しよく吾を敬い祭れば、きっと自然に平らぐだろう」と言った。


崇神天皇は大物主神の勢いを畏れ、殿内にあった宝鏡とニギハヤヒ命の霊代を皇居から出した。


そして天皇は、大物主神が言うように神の子孫である大田田根子を探して、大物主神の祭主にする。


怪しいのは、占い師、三人の天皇と同じ大物主神のお告げを夢で聞いたという臣下、倭迹迹姫、大田田根子です。

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2007年03月24日

少彦名神(スクナヒコナの神)


♪ 「お前の手で漕いで行け」「お前が消えて喜ぶものにお前のオールを委せるな!」
TOKIO 「宙船」より


現在なお三輪山に祀られている少彦名神の正体について…………


『古事記』では、「大国主が出雲の海岸にいると、はるか海上から寄ってくる神があり、この神はかがいもの殻を割って造った船に乗り、丸はぎにはいだ火とり虫の皮を着物にして着ていた」


※ 私は言おう。
「それが、ナンボのもんや!」




「大国主が尋ねても返事がないので、クエヒコを呼んで来て尋ねると少彦名神でした」とあります。


これはもう服装が違う外国から来た神で、言葉が通じないのでクエヒコが通訳した様子が書かれているのです。クエヒコは早くから出雲に来ており、朝鮮語と日本語の両方語が出来たと思われます。


『日本書紀』には、少彦名神は「大巳貴命(大国主の別名)と少彦名命が力を合わせ、心を一つにして天下を作られた」とあり、少彦名神は天下を作った偉大な神であると言っています。



クエヒコは少彦名神を通訳しただけでなく、大陸の様子を日本語で出雲の大国主達に話して聞かせた、初めての外国人でなかったかと思われます。初めて親しく高い大陸文明を出雲にもたらし、大国主達が心から尊敬し神のごとく敬ってやまなかったから、クエヒコも三輪山に祀ったのです。


「クエヒコは知恵は世に類なく優れておられる知恵の神」として今なお祀られています。

※ 「宙船」の「お前のオールをまかせるな!」は、強いメッセージです。同級生の「魔女」は、なかなかいつも鋭い唄を作ります。

私から、「お前のエネルギーをまかせるな!」と、補強しておきます。
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まつり合わせこそは 神の意図


地球の生命体の種は、おそらくアンドロメダ銀河系を始めとして、星々から地球に運ばれた。


密教における「星まつり」は、「命まつり」に他ならない。「神まつり」は、「生命まつり」に違いなく、銀河の放浪者リラ人をも「まつり」に参加させたのである。


『偶然に展開されている事柄は一つもない』事から、私は日本人が担ってきた偉大なる使命を感じて来た。


地球は「星まつり」の会場であり、この宇宙に開かれた会場には、たくさんのさまざま存在たちが過去も今も深く関わり続けているのだ。


しかし、光の会場と変貌を果たそうとしている地球にあっては、次の進化の過程を共に過ごすためには、やはり生命体の変化が必要になる。


「星まつり」は続けられて行く。


ありがとう、プレアデス!
ありがとう、シリウス!


あなた方の力を感じます。
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不思議な祭神


「破られた二千年の魔法」 P41〜


現在の大神(おおみわ)神社は祭神が大物主神、配祀が大巳貴(オオナムチ)神(大国主の別名)と少彦名(スクナヒコナ)神です。


由緒には大物主神とは大国主のことだ、と書かれています。外国の神を祀った側の大国主が祭神になっているではありませんか。この(神社)由緒では外国の神がどうなったのか全然わかりません。


『古事記』では「海を照らして来た神」を大国主が祀ったとあり、外国の神には全然触れず、祀ったはずの大国主が祭神にすり替わっています。


『日本書紀』は「海を照らして来たもの」は「大国主の幸魂・奇魂」であり、その幸魂・奇魂を祀ったとあり、由緒にも「幸魂・奇魂を長くお留めになり」とあり、これでは自分で頼んで自分の魂を自分で祀ったことになります。


※ これを世の「神道家」は、難解な解説を持って解く。自分の霊魂が自分に対してそう告げたのだと宣う。

私たちは、そんな霊的な知識など疑わなければならない。自分の内側が響かない霊的な知識が、その波長に自らを合わせて読み解く必要が、果たしてあるのかどうか疑わなければならない。


彼等はこう宣う。

其ほど神存在は難解であると。平気で宣う。

難解にしたものこそは魔法の実態なのである。難解な神存在を解けなくさせ、「私は駄目だ」と思わせている正体こそは、低次元波長がもたらしたものなのである。




『日本書紀』の立場なら、大国主の幸魂・奇魂を祀ったのですから、大国主が祭神でもいいことになります。いずれにしても、これには深い謎が込められているように思います。

古神道で云う幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)・和魂(にぎたま)・荒魂(あらたま)の四つの魂の内、幸魂と奇魂の二つだけをとりあげています。


たとえば、手足になって働くとか、片腕になって働くとかいうのは、身体のことを言うのではなく人格を表しているように、幸魂・奇魂とは人格を表しているのです。これは海から光って来たのは二人という意味で、海から来た二神は大国主の分身である子供と思います。その神を祀ったことがまぎらわしてあるのです。


まぎらわしてあると云うことが、本書が大いに問題とするところなのです。


※ 後世の神道家はこの謎を解こうと、「一霊四魂」と云う解読を心みた。それは、この出雲宗教にはない境地を表した。


四魂の働きを幸・奇・和・荒魂とし、それぞれが独自の続きを読む
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夜中の独りごと


火事が多い。

私も歳のせいにしているが、ふっと「一瞬」ぼ〜っとしている。「あれ?何考えてたんかな?」と、そんな事が多い。


太陽が活発だ。今日の大阪の夕陽は少し違って見えた。今夜はプレアデスと月が並んだ。

同時に、いくつかの事をするのは控えよう。お茶を作るなら、じっとコンロの前にいよう。


歩くなら、じっと前を周りをよく見て歩こう。いつもより、ゆっくり行こう。いつもより、正確さを心がけよう。


本当にゆっくり行こう。大自然に逆らって何になる。ゆっくり行こう。休んで行こう。慌てて何処へ行く?


嵐が来たって、地震があったって、慌てず怯まず、周りを守るために、


まず、自分を守ろう!

かつてない太陽活動が真っ最中のようですから。


気を付けてください。
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2007年03月23日

魔法を解く


『古事記』『日本書紀』は三輪山の神を次のように言っています。

『古事記』を簡単に書きますと……………

大国主が出雲の海岸で、この国を誰と共に作ったらよいだろうかと心配していると、海の上一面に照らして寄って来た神が「我をよく祀れば共に国を作り始めよう。さもなくば到底国は治まらない」と言われたので、


大国主は「それではどういうふうに祀ればよいでしょうか」とお尋ねになると、


「大和の青垣、東山に祀れ」と答えました。(そこで大国主はこの神を御諸(みもろ)山(三輪山)の上に祀りました)

これは御諸山の上に祀られている神です。



『日本書紀』を簡単に書きますと…………

(大国主が思うに)「今この国を治めるものは我一人である。我と共に天下を治めることができる者が他にあるだろうか」と。


その時不思議な光が海を照らして、忽然として浮かんでくるものがありました。「もし我がいなかったら、お前はどうしてこの国を平らげることが出来たろうか。我があるからこそ、お前は大きな国を作る手柄を立てることが出来たのだ」と。


この時大国主が尋ねて言われるに「ではお前は何者か」と。答えて「我はお前に幸いをもたらす幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)だ」と。


大国主は「そうですか、わかりました。あなたは私の幸魂、奇魂です」「今どこに住みたいですか」「我は日本の三諸山に住みたいと思う」と。そこで宮をかの所に造って住まわせた。これが大三輪の神である。


※ 貴方には、もう既に魔法を解く力はあるだろう。


「海の上一面に照らして寄って来た神」とは、日本海を越えて船で来た神である。


「お前に幸いをもたらす幸魂、奇魂だ」とは、大国主の悪事を共に果たそうと宣う。そして、こうも言う。


「もし我がいなかったら、お前はどうしてこの国を平らげることが出来たろうか。我があるからこそ、お前は大きな国を作る手柄を立てることが出来たのだ」


この神は平然と「我がいなかったら」と宣う。「我があるからこそ」と宣う。彼らは一連托生、同じ穴のムジナである。………これが大三輪の神である!


そして、横着にも「三輪山に住みたいと思う」と宣う。何故?だ!

日本の中心大和の中心、それが当時の三輪山の位置であった。つまり、日本の神の第一番目として「我」を祀れと宣うのである!


神存在ならば、この国がどんな過程で造られたかわからないのか?続きを読む
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『日本書紀』曰く

『日本書紀』に、蘇我氏が滅亡する前年……

蘇我大臣が橋を渡る時をうかがい、競って神語(かんごと)の妙なる詞(うた)をはやした。老人らは「時勢が変わろうとする兆しだ」と言った、とあります


さらに次のような童謡が流行ったと『日本書紀』にあります。

1 かすかに 話し声が聞こえてくる 島の籔原(やぶ)で

2 遠方の浅野の雉(きじ)は声を立てて鳴く。自分は声を立てないでこっそり寝たのに、人が見つけてやかましく騒ぎ立てる

3 林の中に私を誘いこんで、奸(おか)した人の顔も知らない。家も知らない


蘇我の悪事は、大和の人々に伝わっていた様子がわかります。




さらに蘇我氏滅亡の年に、…………………

岡の峯つづきあるいは川辺、あるいは宮寺の間に遥かに見えるものがあり、猿のうめくような声を聞いた。……時の人は「これは、天照大神のお使いである」と言った、とあります。


天照大神は、もう天皇の代が二十六代もかわった昔に、大和から伊勢の片田舎に追われて久しいのです。なぜ、蘇我氏滅亡の前触れに出現したのでしょうか?


天照大神を追い出し迫害した相手の代表者がソ氏で、その一族が蘇我氏であることを暗示していると思います。

『日本書紀』には、前の1は、中大兄皇子と鎌足の大義の相談


2は、入鹿のために上宮の王が殺されたが、天が人をして誅(ちゅう)される兆しだ


3は、入鹿が殺される前兆


と、あります。


※ 蘇我氏が持ち込んだ元型は、「権力中枢に深く入り込むこと」でした。彼らは神官と裏でつながり、「神の託宣」まで利用したと考えられます。


朝鮮半島の勢力ともつながった彼らには、赤子の手をひねる如く、裏と表を一体にして、政治状況を操作・支配していたのです。


このカラクリを解かないと、蘇我一族の実体は見えてはきません。天皇や大和の豪族たちだけが、愚かで、支配欲ばかりに取り憑かれていた、としか見えなくなります。事実そうした見方の書籍ばかりが目につく有り様です。
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蘇我氏滅亡の予兆に 天照大神 現れる


同書 P103〜

〇 蘇我氏滅亡はシラギ崇拝教の滅亡

ここは大極殿、皇極天皇(第三十五代)の御前で三韓(朝鮮半島の国の代表者)が上表文を読み上げている時、中大兄皇子(ナカのオオエのおうじ=後の天智天皇)は出し抜けに入鹿(蘇我イルカ)を切り付けました。


天皇は驚いて「これは一体何事が起こったのか」と言われると、中大兄皇子は平伏して「入鹿は皇子たちをことごとく滅ぼして、帝位を傾けようとしています。天子をおいて入鹿に替えられましょうか」と言いました。これはかねてより、中臣鎌足(ナカトミのカマタリ)と諮(はか)っていたことでした。


(入鹿の父)蘇我蝦夷(ソガのエミシ)の本名は蘇我豊浦(とようら)です。入鹿は鞍作(くらつくり)です。それが、『日本書紀』に馬子・蝦夷・入鹿とあるのは、蝦夷とは都から遠い遠い所の人のことを言います。


※ 私の手元にある「日本史年表・地図」(吉川弘文館)には、蘇我の名前を継ぐ者として

石川麿―満智―韓子―高麗―稲目―

馬子―蝌夷―入鹿

とある。蘇我一族は他には、「巨勢」「平群」「紀」「葛城」がある。当然、この他にもいただろう。




海の向こうの遠い新羅の国から来た人が、天皇を殺し(第三十二代崇峻天皇を馬子は殺した)、さらに皇位をうかがうとは何と不届きな愚かなやつ、何と大バカ(馬鹿)者、の代名詞として馬(子)、蝦夷、(入)鹿とあだ名をつけたのではないかと思います。


馬子の墓と言われている石舞台古墳は、大きな岩が重なって石室が残っているだけです。かつては土が盛ってあり、石室から推し量ると相当大きな古墳です。ところが暴かれて、かぶせてあった土はなくなり、遺体さえなくなってしまったと地元に伝えています。墓が暴かれるほど蘇我氏を憎んだ人達が大勢いても当然です。


※ 蘇我の入鹿が死んで蘇我氏は滅びた。しかし、魔の力は残された。気づきのある人には、それが何か、わかるだろう。
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2007年03月22日

曾の宮から出雲大社へ


現在、出雲大社の祭神の大国主は参拝者に向かっていません。新羅(しらぎ)の方を向いています。(西の方に向かっているということです)


これは大国主は元々祭神ではないということを暗に言っているのではないかと思われます。大国主は新羅を憧れており、その新羅を憧れる大国主を拝ませているのです。つまり参拝者は、間接的に新羅を拝んでいるのです。


現在は出雲大社の裏に蘇我社が祀られていますが、その昔は蘇我社が本殿であり、蘇我とは「我がソ氏である」ということです。始めはソ氏の先祖を祀り、後にはイソ・タケルを祀ったと思います。


後に蘇我神の本殿を後ろに下げて摂社とし、祭神までスサノオに替えなければならない程に世の中が変わっていき、やむを得ずソ氏の子孫達は、大国主が「蘇我神」に背を向けて失礼がないようにとの配慮を含めて大国主を正面に向けずに新羅に向かわせていると推定されます。


長い時の流れの中で、新羅(しらぎ)神から今度は大国主と事代主(ことしろ)を偉大な神に仕立て上げて、出雲で興った宗教は時代にあわせて変身し、日本中に宣伝され、古神道を守っていた多くの神官に宗旨替えをさせて、その上に君臨したと推定します。



大国主の死亡した弥生時代から延々と江戸時代まで、日本中の多くの社の祭神を新羅神や出雲神に塗り替えました。その陰では、新羅神崇拝教・出雲教の布教師が、時には社から子孫を追い出して神主家を奪い、さらに追い出した人を蔑視し、新羅崇拝教・出雲教に従わないで古神道を守る人々に恐るべき迫害を加えたと思われます。


日本中の多くの人々は、二千年来、出雲の宗教を何ら疑うことなく古神道と思い込んで、深い深い魔法にかかって、魔法にかかっていることも知らずに、今日に到っているのです。


ここでお断りしておきますが、本書は歴史のことであり、しかも昔こういう事があったであろうと推定しているだけです。現在の社や現在のどのお方とも全く無関係であり、当然のことながら信仰は自由です。


P35〜36まで
ニックネーム 龍 at 23:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

なぜ、ホヒ(菩比命)を表に出したか?


「破られた二千年の魔法」より P33〜


ホヒを殺し実権を握っていても、イソ・タケルに力が無くて大和朝廷を恐れていた時は、ホヒを表に出して(子孫だとして)誤魔化していたのですが、新羅(しらぎ)崇拝教を興して力がついてくれば、神主はイソ・タケルの子孫と言った方が得策です。


イソ・タケルの子孫と堂々と名乗って幅を利かせていたのが蘇我氏でした。蘇我氏はあわや天皇の位に手の届く寸前に滅亡したのです。


※ 蘇我氏と聖徳太子の関係、まさに、蘇我氏は物部氏との権力闘争に勝ち「この世の春」を実現しました。



新羅(しらぎ)のソ氏か天皇の位をうかがった事を、天下は許さなかったのです。


※ 後の天智天皇は、後の藤原氏の祖である鎌足と謀って、皇居内で蘇我入鹿を討たれる。そして、645年「大化の改新」となる。



そこで、新羅崇拝教から鞍替えした出雲教は、新羅崇拝教イコール出雲教が全国に盛んになって、イソ・タケルの一族イコール大国主一族が大和で成功を納めているのですから、あとは「八咫鏡(やたのかがみ)」を手に入れた暁(あかつき)には皇位を奪うことが出来るのです。


ところが「ソ氏」や「大国主」の血筋では、天皇の位を乗っ取る事が無理かもしれないという事がはっきりわかったのが蘇我氏の暗殺でした。ホヒの子孫と言っておいた方が、イソ・タケルや大国主の子孫と言うより断然良いのです。ホヒは天照大神の子孫(息子)ですから、ホヒの子孫が天皇になっても何ら問題はなく、世間的に堂々通用するのです。


※ この「祖先」の「使い別け」は、実に大和朝廷の役職における臣名の出自の複雑さにつながっている。誰が誰の子孫なのか、混乱する。


大田田根子はその例で、「父を大物主」と天皇に言い、言われた天皇は、田根子を皇室につながる血縁者と認め「ああ、私はきっと栄えるだろう」と、安堵したと伝えられる。大物主は「我は倭国の域の内にいる神」と言い、天皇は、「ならば、皇室の祖先・ニギハヤヒ命に違いない」と思ったと、まるで当たり前のように話は進んで行く。


確かに、出雲から大和朝廷に仕える子孫は、名前を天皇から与えられている。その際に、どちらが有利か?著者は「ホヒの子孫」と言っただろう、と考えられる。



天皇の位を乗っ取るには、表向きホヒの子孫と言っておくのが最も良いので、ホヒの子孫と言ったのだと推定します。これはイソ・タケルの子孫が背後で牛耳っ続きを読む
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蘇我氏


日本の歴史に、まるで影のように張り付いた謎の一族がある。蘇我氏である。


日本の新しい国史となる『古事記』『日本書紀』の編纂を為された天武天皇は、兄である天智天皇が討たれた蘇我一族のことをよくご存じだった。


天武天皇の御代の頃には既に、蘇我氏の血は皇室に入っており、朝廷の重要な役職にも一族の子孫がいた。


貴方や私が天武天皇の立場ならば、いくら蘇我氏の過去が問題だとしても、自分の目の前で大和朝廷のために懸命に働く者たちを、その一族の末裔だというだけで邪険に出来るだろうか。まして、蘇我氏の血は帝自身も受け継いでいるのである。

ここに悩ましい現実があった。過去をさかのぼり歴史を訂正する事は出来ないが、史実を伝えながら一定の配慮は加える事が出来る。

天皇とて叔父や叔母がいる。世話になった人もいるし、現実的な朝廷の権威と機能の面からも影響力を考えないわけにはいかない。また、兄と兄の皇子の側の勢力と戦い皇位を手にした天武天皇にとって、自身の目指す政権の正当性を示すのも重要な点である。


それらは押し図るしかないが、批判ばかりでは自分にも批判の矢が向くだろう。各一族が、それなりに面子が立つように、一族の祖の汚名にならないように配慮することは、天皇と云えども大切な視点である。時代は奈良時代の終わりの頃であった。



蘇我氏の出自は不明とされる。しかし、たくさんの説があり、具体的な名前も挙げられている。私は山本両氏の説を取りたい。すなわち、蘇我氏は古代出雲地方に現れた大国主の子孫を名乗る一族であると。


古代出雲に現れた一族は、大量の朝鮮半島の民族を出雲に集めもし、やがて越の国・新潟辺りにもたくさんの人々がやって来た。それらの人々は東北地方に分散して行った。


蘇我氏は、後に仏教の擁護者となり、またも大陸からの新宗教を広める。つまり彼らは、つねに宗教という「道具」を利用する事で、日本における権力を獲得して来たのである。

そして、「新しい神や仏」は大和朝廷の内部に深く浸透して行った。人心を統一するに絶大な効果を持ったからだ。すなわち、「神・仏」は、統一国家のすぐれた「装置」であり、ゆえに人心を取り込むために「神社」が、「国分寺」が各地の要所に国家事業として設置されて行く。


日本は宗教国家の道を進んだのである。多様な思想などは不要であり、従って多様な人格などもない。一方向への忠義だけが必要であり、すべては続きを読む
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2007年03月21日

休憩


「何から話そうか3」に少し書いてみた。間違って、そっちに張り付けてしまったので、よかったら見てください。


三角鳥居などについて書きました。
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休憩


祟るという字は、神社の社の形に似ている。

山は、社の屋根の千木(ちぎ)に似ていて、


宗は、屋根の下に示すである。示めされたのは神であった。故に宗教の字は、この神観の体現である。


しかも、この国の神は、最初に「厄災」と関係して出てくる。「厄災」を治めてやろう、と崇神天皇に云う。


そう、崇神天皇のおくり名は「崇」神であった。人皇として最初に神と出会い、天皇の別名は「ハツクニシラス」であり、初代神武天皇と同名なのである。

何度も言わなければ魔法は解けない。最初、神は、「崇」なるものであったのだ。この「崇」から「たたり」という概念はもたらされた。


それは長くこの国に取り憑いた魔語に違いない。


プレアデスのサティアは教える。かつてプレアデス人は人間を助けた。その事があって人間は、「神がいつか現れて自分たちを助けてくれる」という期待を持ってしまった。サティアは、この事を後悔している。


そう、地球の神々は精霊であり、天使たちは特別に人間に関わりやって来る存在であり、キリストは特別な使命があり地上に降誕したのである。つまり、神は人間の前に現れる事はないのである。


ひふみ神示は、天使集団の表した書であり、言いかえれば守護霊界の示された書である。しかし、これを神の書として何の問題はないのである。何故なら、天使、守護霊は神々の使命によってはたらかれているからである。

地球には既に至高存在があり、太陽系は高等評議会とプレアデス人がいう神々の世界であり、地球精霊は悉く姿を大自然という形で現わしている。


「厄災を治めてやろう」等と神は言われない。そのような形で人間に示す必要はなく、「私を祀れ」と申される必要などない。


私は神存在が、人間に近い意識存在だとは思えない。プレアデス人は人間を守護する役割を任されているし、人間と共に「時間」を過ごされたからこそ、人間の事がわかるのである。


ひふみ神示の守護霊も、人間と共に居て頂いたからこそ、人間存在の諸課題を知っておられるのである。


いずれも、特別なコンタクトであり、高等評議会の許可がない限りは成し得ない行為である。この多次元存在たちは、人間をこれ以上「孤独」にしてはならないとの使命をおびて、光を人間に与えに来られたのである。



だから私は、大物主を神とは認められない。また、人間にコンタクトされる高次元存在の「サニワ」は、「多次元」だと知る。続きを読む
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淫乱を縁結び神に変身


大国主の悪評は淫乱です。


※ 男が女好きであるのと淫乱は違う。淫乱は「依存」であり、霊がかりの「症状」である。

快楽に依存することは、中心ゝ点を見失った行為であり、ただ繰り返すだけの反復行為である。自己を相手を見失い、満足を知らない。人間をそのように沈溺・依存させるカルマは、遠く火星時代から始まっている。



そのはずです。淫乱がこうじて国と国との約束を破り、ついに国を譲らされた、淫乱で国を滅ぼした男。この不道徳な男を子孫や地元の人がなんで祀(まつ)るでしょうか?


こんなことはあり得ないのです。あり得ないことが起こっているのです。


多くの女やその親達を泣かせた、世に醜男(しこお)と呼ばれて笑われ者になったその男は、何と“縁結びの神”に仕立てあげられて「大神」とは驚き入ったものです。


※ 「葦原醜男(あしはらのしこお)」が大国主の別名である。

さらに別名に「八千戈(やちほこ)」があり、八千の戈(ほこ)から大量のヤリを持っていたとも読まれている。

さらに別名「国作大己貴(くにつくり大あなむち)」とあり、ある人は「巨根」から「国を作る」までに豪族の姫を次から次に妻としたといわれる。


このように、大国主には「色」「醜男」といわれる良くない名前が付けられている。




この不思議をおかしいと思わない程に魔法がかけられてしまったのです。およそ淫乱で国を滅ぼした者が大々的に神に祀られることがあるでしょうか?


武田信玄は徳川家康に負けますが、甲斐の国に大きく貢献して地元民から尊敬されていたために神に祀られています。大国主は淫乱の果てに「国譲り」をして、潔く死にもせず、お情けの幽閉御殿で寿命の尽きるまで恥をながらえたのです。


さて、これをどう神に仕立て上げるか?


〇 大国主の悪評・修繕会議(筆者推定)


「大国主は幽閉されたのではなく、政治を皇孫に譲って神事を受け持つことになった」

「大国主は、天照大神に御殿を造ってもらうほど偉い神なのだ」

「そうだ、そうだ、大国主は幽閉されたのではなく、幽冥(ゆうめい=あの世)を支配されたのだ」

「大国主は国土を開墾されたが、国土をニニギ(命)にお譲りして、幽冥・神の世界を大国主が支配する、とすればよい」

「国土を譲ってもらったお礼に、天照大神が感謝して大国主に御殿や橋や船を造ってくれて、天照大神は自分の息子のホヒを大国主にお仕えする祭祀と続きを読む
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出雲で新羅神崇拝興る


イソ・タケルはホヒを倒して出雲の実権を握ると、大国主の幽閉御殿を拝殿にして、自らの「ソ氏の先祖」を本殿に祀ったのではないかと思います。それが出雲大社の始まりと思います。


※ 大国主の御殿とは、飛騨政権が出雲の国譲りの際に大国主が住む社として建てたものである。この巨大な社を、出雲宗教は利用した。



……………………

現在、出雲大社の祭神は大国主です。現在の姿だけを見ていると、社の最初から、出雲大社は大国主を祀っていたように見えますが、『古事記』の十一代垂仁天皇の御世に、皇子が出雲の社に参拝される記述があり、出雲の社を「石(いそ)くまのソの宮」と呼んでいます。


曾の宮とはイソ・タケルのソ(曾)であり新羅(しらぎ)の「ソ氏」の宮です。出雲大社は昔は、曾の宮、蘇我(そが)社と呼ばれていたと推定されます。


※ つまり、出雲大社は、少なくとも皇子の参拝以降の呼び名であることになる。第十代崇神天皇の時代には、「曾の宮」であったのだ。



さらに『古事記』は曽の宮に坐(いま)す葦原色許(アシハラのシコ)大神(大国主の別名)として、祭神は大国主になっています。


これは『古事記』編纂の時はすでに祭神がイソ・タケルから大国主に替えられていたのですが、社を曾の宮と呼び、まだ新羅崇拝教の名残があります。



二章で触れますが、新羅崇拝教を出雲教にあわてて変えたのは、大和の蘇我氏滅亡(から)です。この事件でいっきに時代が変わり、蘇我氏の新羅神は信用を失墜しました。世の中に通用しなくなった新羅神を慌てて他に替える必要に迫られたと思われます。


曾の宮の本殿にイソ・タケルが祀り、かっては蘇我社であったのを、さあどう変身するかです。


大国主は淫乱で国を譲った、この悪評では地元の出雲さえ、とても神にはなりません。


※ 大国主の別名「葦原色許」の「色」には、そんな意味を含んでいると云われる研究者はたくさんいます。



ではスサノオは?スサノオはオロチを退治した英雄です。最初はスサノオに替えたかもしれません。しかし、天照大神の弟で飛騨の人間なのです。


そこで、大国主の悪評が薄らいだ頃に、飛騨色のない出雲の大国主、淫乱大国主を、大神大国主に変身(変神)させたのではないかと思われます。
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出雲で大陸文化礼賛の大ブーム


「破られた二千年の魔法」より


P26〜

『古事記』はずっと後に書かれたものですが、その中に、大国主が海岸にいると海の上を一面に照らして寄って来る神がいて、その神を大和の三輪山に祀(まつ)ったとあります。


これは大国主が外国から来た人を神と崇(あが)めて、恭(うやうや)しく仕えている様子です。大和朝廷も後には朝鮮から技術者を招きますが、その頃は出雲に流れついた人は朝鮮では普通の人であったと思われますが、「海を一面に照らし」ですから、普通の朝鮮人が「輝いて見える」ほど大陸文明に憧れ心酔(しんすい)している様子が表れています。………


大国主が朝鮮に行って向こうの女に生ませた子が大勢いると思いますが、その代表が「イソ・タケル」であり、ホヒ(飛騨の菩比命)を殺した出雲の英雄であったと思います。


※ イソ・タケル
「五十猛」と字を当てられる。素戔鳴命の子とされているが、誰だか本当のところはわからない。

「タケル」とは尊敬すべき英雄に与えられた名前で、「大和タケル」は有名である。



「イソ」とは新羅(しらぎ)の曽戸茂梨(そしもり)に「居たソ氏」(居曽=イソ)という意味です。


新羅から流れ着く人々は出雲の人々の憧れの的(まと)であり、出雲の人々は競って新羅から流れ着いて来る人々と結婚し、文明を取り入れて「新羅かぶれ」していったと思われます。


※ 人々が異国の人に憧れ、好きになっていくのは、人間として自然の行動だと思われる。特に女性は、強い遺伝子を残す本能的な側面から、美形の男に恋することは避けられない一面ではある。

後に日本に流れ着いた平家を興す人々は、矢切止夫に言わせれば白人であり、日本人男性には無い鼻の高い美形な人々であったらしい。


豪族の姫方が新羅から来た男性に恋こがれ、婿に入り一族を形成していった事は、差別意識のない古代社会では、比較的に人々に受け入れられたかも知れない。


しかし、話はそこで終らない。平家を興す人々と同様に、野心が芽生え育って行く。外国人から見れば、日本人は純で素朴であり、アクに染まっていない事が、かえって野心を遂行し易かった。


当時の日本には戦いは無い。しかし、彼ら外国人は、幾度の戦下を生き抜いてきた。征服された側は殺され、奪い尽される。ある民族は、平気で人間を食べもする。つまり、闇の世界で育てられた人間たちは、権力に対する執着と、それらが何を自分たちに続きを読む
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2007年03月20日

休憩


クジラやシャチが浅瀬などに「迷い込んで」死んだ「事故」が、前にテレビなどで報道された。私は「何から話そうか2」でも書いたが、日本近海に展開しているアメリカの原子力潜水艦の影響が関係しているのではないかと書いた。


本日テレビ番組で、ますますその確信を強くした。番組名は「出逢いのハーモニー」、大阪からは京都テレビで放映されている番組だ。出演者は「荻野みちる」さんで、アメリカの「海の哺乳類情報センター代表」となっていた。


北海道で子供のシャチを守る為に、子供のシャチと一緒に浅瀬に入り死んだ親シャチを専門家が調べたところ、体内に水銀、PCBなどの有害物質が確認されたという。


石油製品が海に捨てられ、長い時間にプランクトンぐらいの微小な形になり、それらをエサと一緒に海の生き物たちが食べていく。体内に貯まった毒素は、人間と同様に肉体を内から破壊していく。


また、クジラはとても耳のよい生き物で、センサーを出してそのハネ返りで周りの物質形態を認識するが、耳の壊れたクジラが発見されているのだという。唯一考えられるのは、原子力潜水艦による「低周波実験」だと専門家たちは考えている。

彼ら専門家集団がアメリカ本土で実験を辞めさせる訴訟を起こした。裁判官は調停し、軍や政府関係は「アメリカでは実験は行わない」と声明したという。アメリカの言い方では、「今後こうした実験は日本やアジアの海域で行う」という。



やはり、原子力潜水艦による影響で、クジラやシャチが驚いて浅瀬に乗り上げてしまった可能性が高い。


一部の「スピリチュアル」を語る人々は、「地球の変動のせいだ」と言うが、とんでもないのだ。クジラやシャチは原子力潜水艦から出される低周波実験の被害者なのだ。


この低周波は地上を縦横ムジンに、まさに網となって降り注いでいる。イライラ感や脱力感の元になっている。神経を高め刺激となり、肩凝り腰痛を展げてもいる。


東京都の離れ小島の海底ケーブル切断事件などは、素人が考えたって潜水艦の関わりを感じる。しかし、その後、「犯人」は見付からないままだ。


今後、クジラやシャチやイルカが変な動きをすれば、アメリカの原子力潜水艦をまず疑うべきだ。弱腰の日本政府の対応を、充分に監視しておくことだ。
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大国主は新羅に行っていた


「破られた二千年の魔法」〜二千年の神隠しは二千年の悲劇であった〜 山本貴美子著 山本健造監修 福来出版 平成14年4月21日 第1版第1刷より


※ 私が「魔法」に気づき確信を得たのは、太田龍氏からデーウ゛ィッド・アイクを知ったことからもたらされた。


長年に渡り気づきはあったが、明確には成り得なかった。アイクの「大いなる秘密」を読み、「魔法」を造り出した「悪神」に辿りつけた。さらに、飛騨高天原天孫族を知り、買い求めた本の題名を見て勇気づけられた。


アイクと山本両先生には何の関係もつながりも無い。無いのに不思議に、見えておられる世界を「魔法」だと言われる。これこそが、共時性だと解る。


それぞれの人生はまったく別々のものであるのに、真実を追究すれば「魔法」に辿り着いたのである。


私は重ねて言うが、出雲神を信仰されるのは自由だと思う。私が問題にしたいのは、闇の勢力の人間社会への介入の暴露だ。


そのことなしに人間は自由にはなれない、と考えている。


新しい地球を創造するためにも、地球を離れなければならない御霊のためにも、この日本国に生まれた人々が、かつての古代日本において為された邪悪を克服していく事が大切な一本のゝの道だと考える。


それはまさに浄化への道のようにも思うからだ。


ご苦労な御霊があり、幽界に囚われた御霊がある限り、人間だけの改心・浄化では不充分な気もする。従って、祖先と共に浄化されるべき道も必要ではないかと考える。


顔も知らない祖先であっても、名前の無い方々であっても、私たちの祖先にかわりはない。関係のない御霊はないのだ。


「一人が改心すれば千人助かる」の教えを信じ、この胸の扉を開け放して欲しい。「ご苦労様でした」「ありがとうございました」と、地球を離れる御霊に感謝したい。


歩く道を造ってくれた御霊へ、山をきり開かれた御霊へ、田を耕された御霊へ、あなた方のお陰て生きています。



P25〜

タギリ姫が飛騨に帰ったあと、ホヒ(出雲へ国造として飛騨から行かれた菩比命)が大国主と話をするために出雲に行くのですが、大国主に何年も会うことができなかったのです。その間、大国主は新羅に行っていたのではないかと思います。


『日本書紀』に「スサノオはその子イソタケルをひきいて、新羅の国に降りられ曽戸茂梨(そしもり)のところにおいでになった」とありますが、これはスサノオで続きを読む
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