山本健造先生は、我が橿原の出身の祖父によく似ておられる。
人には不思議と思われようが、迷信と言われようが、心に響くもの響かないものを見分けるものが備わっている。
日月神示の「解読」本を読み始めた私は、どうもわからない。「ユダヤの王が日本に現れる」と書いた本を読み、「日・ユダヤ同祖論」を知るが、関係書を読むが、やはりわからない。
わからないのは「悪神」の正体なのだ。
王仁三郎の関係書を読んでも、「正体」は書いていない。私は納得がいかなかった。
三輪の大神神社を初めて訪れた私は、その大層すぎる社に馴染めず、
香水をつけた巫女にも馴染めない。途中の道の寺と神社の火災跡を見に行き、何か蘇るような
映像を感じた。
集団が社のようなものを燃やすようなイメージだった。それは今だ誰にも言えない、神社の前に立った時の映像である。
王仁三郎は、私のある時の親父に似ている。私の息子曰く「そっくりやん」である。
私は橿原の祖父を尊敬して来た。祖父が亡くなる前に、私は一人若狭に居る伯父を迎えに行った。
祖父はこの伯父を一番心配していて、そのことを知る私は、何とかして死ぬ前に二人を会わせてやりたかった。
昔の「無茶者」の火がついた。信号無視を繰り返し、皆が驚く時間で伯父を連れて帰って来た。私は感じていた。車の屋根辺りに、誰かお祖母さんか誰かが、一緒に居てくれた事を。
それらの経験は人には話せない。だから私は、ある意味孤独を感じざるを得なかった。しかし、導きの線はしっかり結びつけようとしてきた。
神が悪神と言われる。私は現実社会で、相当な人物を身近に見てきてもいる。ヤクザの親分はもとより、政治家を動かす陰の実力者、そういう人間がどんな手を使い権力側にいる人間を使うのか、等である。
神が悪神と言われる意味を、私は自身が見てきた世界でやはり検証する。そいつが人間ならば、相当な奴であり、使われてるなら表の世界に居る筈である。そんな嗅覚を使ったわけだ。
神が人間にはサニワ出来んと言われるのだ。私は、ただならねものを感じ続けた。
人間を見る目は、まだまだ駄目かも知れない。しかし、おじさんに似た、何とも近いものを感じた山本健造先生の話を、私は正面から受けるつもりでいた。
太田先生の話もそうだ。だいたいが、私が探していたのは「悪神」なのだから、たやすく見つかる筈はないのだ。この七年、五年を、そうしてこの
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