2007年02月28日

休憩


「しかしねぇ、豪族はさぁ会社で言えば社長だよ、社長は社員のことも考えなきゃいけない」


「あの国には薬もあるし、作物の種もたくさんある。大和にとってはチャンスだよ」


「だいたい天皇の考えは古いよ。祖先の苦労もわかるけど、民の増えた大和で新しいやり方をしたっていいじゃないか」


「えっ?半島との品物はどうしてるって?」

「私もね、ライバルがいて大変なんだ。一族のことを第一に考えておかないと、何時どんな事があるかも知れない」


「馬はいいよ。あぁ難波の方に今じゃたくさん子供を生んで増えたよ。色々と餌さ代とか大変さ」


「大変と言えば、あの国の女は大変だ。やれ衣装代、やれ香木代、やれ首飾りだの何だのとね。でも、良いよ〜肌が白くて透き通っていてね、大和にはいないよ、いや、この国の何処にもいない」


「……うっほん!これは内緒ね。内緒」


「ほんと、社長は考えることがたくさんあって大変さ」


「今夜、また、お社で人と会うからね。えっ?なに?仕事さ、それしか社長にはないでしょう」


「もう忙しいんだから、ほんと」


…………………
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大和の「天災」を考える

崇神天皇の五年、大和に流行り病があり、民は役人のいう事も聞かずに土地を離れます。

半数の人々が亡くなったと『日本書紀』は伝えています。この流行病が何なのかは、わかりません。しかし、歴史を見ると、悪性の病原菌が船で運ばれる事実を見つけます。


船にいたネズミや、材木などに卵を生み着けた蚊が孵化して、広がった可能性はあります。また、当然に外国から来た人間によって、悪性の病原菌が運ばれた可能性もあります。

問題は、この「天災」と当時の人々が捉えた「不安・恐怖」を、永く大和政権を狙う出雲族が見逃さなかったということです。



先にぺスト菌のことを書きましたが、あの頃に宇宙船が多数見られていて、ヨーロッパの人々は、その事と流行病とを重ねて考えた事が伝わっています。


世界統一政府を目指す闇の悪魔主義者の実態と、アヌンナキなどの闇の勢力の実体が明かされた今日、それら闇の勢力が深くつながっていた事が理解される今日、新しい視点を得て歴史を振り返ることは重要なことでしょう。


私は、大和の流行り病がリラ人の仕組んだ事だとは言いませんが、彼らがやる気になればそんな事態を作ることは可能であると思います。


大和で民が土地を離れたというのは、相当に民の不満が根強かったことがうかがわれます。流言のたぐいもあったかもしれません。


それにしても天皇の周りにいる者たちの、出雲神への信仰の強さです。天皇の周りの豪族たちは、進んで現世利益宗教の熱烈な信徒になったと思われ、天皇よりも神の意志を知る神官の力は、あなどれないほど強くなっていたのでしょう。


そんな宗教が一年二年で広がる筈はなく、もう死んでいない大国主神をはじめとする出雲神を、出雲族は熱心に大和で人々に説いたようです。


しかし、宗教が教義だけで広まるのではありません。人々が望むのは、特に豪族たちが望むのは、自らの利益です。


利益の元は、てっとり早いのは、外国との貿易です。時にそれは文化であり、華麗な装飾品であり、時には外国の女性でもありました。


最近出版された『持丸長者』(持丸はお金のこと)(広瀬隆 ダイヤモンド社)を読めば、あの三菱や三井といった大財閥が権力の庇護の基に貿易で莫大な財を築いた関係がよく分かります。


つまり、出雲宗教の出雲一族には朝鮮半島出身者が大多数であり、朝鮮との交易によって大和の豪族たちは新しい富を手に入れる手段をつかんだのです。
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休憩

山本健造先生は、我が橿原の出身の祖父によく似ておられる。


人には不思議と思われようが、迷信と言われようが、心に響くもの響かないものを見分けるものが備わっている。


日月神示の「解読」本を読み始めた私は、どうもわからない。「ユダヤの王が日本に現れる」と書いた本を読み、「日・ユダヤ同祖論」を知るが、関係書を読むが、やはりわからない。


わからないのは「悪神」の正体なのだ。


王仁三郎の関係書を読んでも、「正体」は書いていない。私は納得がいかなかった。


三輪の大神神社を初めて訪れた私は、その大層すぎる社に馴染めず、香水をつけた巫女にも馴染めない。途中の道の寺と神社の火災跡を見に行き、何か蘇るような映像を感じた。

集団が社のようなものを燃やすようなイメージだった。それは今だ誰にも言えない、神社の前に立った時の映像である。


王仁三郎は、私のある時の親父に似ている。私の息子曰く「そっくりやん」である。


私は橿原の祖父を尊敬して来た。祖父が亡くなる前に、私は一人若狭に居る伯父を迎えに行った。


祖父はこの伯父を一番心配していて、そのことを知る私は、何とかして死ぬ前に二人を会わせてやりたかった。

昔の「無茶者」の火がついた。信号無視を繰り返し、皆が驚く時間で伯父を連れて帰って来た。私は感じていた。車の屋根辺りに、誰かお祖母さんか誰かが、一緒に居てくれた事を。


それらの経験は人には話せない。だから私は、ある意味孤独を感じざるを得なかった。しかし、導きの線はしっかり結びつけようとしてきた。


神が悪神と言われる。私は現実社会で、相当な人物を身近に見てきてもいる。ヤクザの親分はもとより、政治家を動かす陰の実力者、そういう人間がどんな手を使い権力側にいる人間を使うのか、等である。


神が悪神と言われる意味を、私は自身が見てきた世界でやはり検証する。そいつが人間ならば、相当な奴であり、使われてるなら表の世界に居る筈である。そんな嗅覚を使ったわけだ。


神が人間にはサニワ出来んと言われるのだ。私は、ただならねものを感じ続けた。


人間を見る目は、まだまだ駄目かも知れない。しかし、おじさんに似た、何とも近いものを感じた山本健造先生の話を、私は正面から受けるつもりでいた。

太田先生の話もそうだ。だいたいが、私が探していたのは「悪神」なのだから、たやすく見つかる筈はないのだ。この七年、五年を、そうしてこの続きを読む
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長谷寺あたり

同書 P165〜


四年後に大和に逃げ帰ったというその道中は、往路よりも危険なものであったに違いない。


「崇神天皇四十三年、倭国伊豆加先元宮に遷す。八年間奉祭する」と『倭姫命世紀』にもある。


伊豆加先元宮は現在の長谷寺(奈良県桜井市初瀬)付近であると言われている。この地には天照大神の降臨の伝説が残り、長谷寺も寺には珍しく、本尊の左となりに天照大神をお祀りしている。


この辺り一帯はニギハヤヒ命の本拠地であった島兄山であった。豊鍬入姫はニギハヤヒ命一族を頼って長谷の地に来たのであった。しかし、この地が安全な地であるなら、始めからはるばる丹後国までも行きはしなかった。


『旧事紀』を読むと、その内容は出雲礼讃だらけで、まるで三輪氏の伝承かと思ってしまう。


始祖のニギハヤヒ命は大国主命の吐いた毒風にあたって死んだと書きながら、大国主命は偉大な神であり、その子孫も神悟明達であると書いている。このように、ニギハヤヒ命一族が始祖の仇敵を褒めたたえ、天火明命一族がその系図に出雲族を入れ替えるほど、出雲神信仰は猛威を振るっていた。


※ こんな誤魔化しに騙されて、「ひつくの子供」を名乗る人にも出雲神の闇が見えない。「悪神の世」の神意が伝わらない。


ひふみの神は最初に言われている。「途中の神々様にもわからん仕組みざ」と。


私に言わせてもらうならば、「過去の事をすっかり忘れた身魂」なのである。そんな身魂が「ご用」などとは、おかしいのである。いずれこの身魂の書かれた本を、私はサニワし払い清めるつもりでいる。




皇室を守るべき二大氏族が洗脳されてしまっては、もはや天皇一人が頑張ってみても、大和に天照大神を祀ることなどできるはずもない。


ニギハヤヒ命は、皇統系図を見ると天照大神の皇子・天忍穂耳命の長子である。天孫降臨の際、指名された天忍穂耳命が老齢のため辞退し息子に譲ったということは前に述べた。

長子ニギハヤヒ命は大和へ、末子ニニギ命がスメラミコトとして指名され、九州を攻めに下られる。第二子天火明命は飛騨に残られた。しかし、その子孫も順次、各地の開拓と防衛に旅立たれる。


ニニギの命、その子孫は、三代かかって九州を平定して、新しい国の都に予定された大和に帰って、カムヤマトイワレヒコノ命(神武天皇)が橿原の地で即位される。
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出雲教による海部氏と籠神社の乗っ取り

同書 P162〜


なぜそのことが問題にされるかというと、豊鍬入姫が出雲教の追求を振りきり、大和から必死の思いでたどり着いたのである。



※ 豊スキの「すき」は、「鍬」「鋤」と表される。



『倭姫命世記』によると「崇神天皇三十九年、丹波の国の吉佐宮(よさのみや)に遷幸され、四年間奉祭する。この年豊宇介神(とようけのかみ)天降り、皇大神(天照大神のこと)に御饗(みあえ)を奉る」とある。


※ 伊勢の外宮神官の作文である。



つまり、まさか大和を遠く離れたこんな所まで、出雲教が追ってくるとは、思いもよらなかったところ、安泰であったのはわずかに最初の数ヶ月、四年後には、失意のうちに豊鍬入姫命は大和に逃げ帰ることになってしまうからである。


「降り」たという豊宇介神とは、豊受神つまり大国主命のことである。


「折角、出雲教信仰から命からがら逃れて丹波国まで来たのに、一年も経たない内に」大国主命(を奉じる者たち)が追いかけてきたというのである。


そして「皇大神に御饗(食べ物)を奉る」と称して、大国主命を祀られてしまう。この「吉佐宮」とは、丹波国の一の宮、籠神社(京都府宮津市大垣)だとされるが、その他の地にも吉佐宮の伝承を伝える所があることから、出雲教の探索の目から逃れるために各地を転々としたものと思われる。この時の吉佐宮は、籠神社の少し北にある奥宮と呼ばれている真名井神社である。


※ 真名井神社
イサライの井戸の社ともいわれ、カゴメ紋が刻まれていた神社である。


この神社に、今日、私たちの目が行くように、何者かが仕掛けを施してきた事は疑いようのない事実である。


「かこめかこめ」と、六つのカゴメ紋で囲み込みたい勢力が、いまだに存在する。存在するからには、謎は解かれねばならない。




籠神社は、『繹注大日本史』丹後国與謝郡(よさぐん)の項によると、「佐吉の三神を祀る」と伝えられ、「延喜の制に名神六社、に列す。丹後国一の宮」とある。


この神社には天照大神の孫、天火明命を始祖とする「海部氏系図」(昭和五十一年に国宝指定)が伝えられている。この系図は、始祖天火明命からあと十七代を省略してある。


ただし、四代目の倭宿弥命だけは記されている。この系図本巻を補完する「海部氏勘注系図」なるものも存在するという。


「勘注系図」は、その省略された十七名の名を伝えているが、そこに記載されている二代続きを読む
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武埴安彦の大乱

ついに大和のこうした事態を見て、崇神天皇の叔父・武埴安彦命(たけはにやすひこ)が立ち上がる。


武埴安彦

人皇第八代 孝元天皇の皇子で山背(やましろ=山城)に居られた。


「縄文日本文明一万五千年史序論」太田龍 P155〜


「武埴安彦の大乱は、〔政治的反乱ではなくて〕宗教的反乱なのである。武埴安彦は高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の神助によって、その聖山天香山を回復して、大物主神信仰新興宗教を打倒して、旧スメラミコト宗教体制を回復せんとしたものと解すべきである」(橘孝三郎『天皇論』の中の『天智天皇』P23)


この着眼点はすぐれている。崇神十年―いわゆる「四道将軍」を派遣して武埴安彦の大乱を鎮圧したという。


しかし、これらの「将軍は将軍というよりは、むしろ大物主神新興宗教宣伝の任務を帯たる大物主神信徒といわぬばならね性格の所有者である」とする。


さらに「教えを受けざる者あらば、乃ち兵を挙げてこれを伐て」というこれは、『日本書紀』に記述された、崇神天皇の詔勅(命令)だという。


奇怪な話ではないか。「教えを受けざる者」とあるが、一体この「教」とは何のことか。明らかに、橘孝三郎の表現を借りれば、「大物主神新興宗教」であろう、だが、この「新興宗教なるものの正体は何者なのか」ということだ。


それは天照大神を追放し、排除したということにつきる。つまり、崇神天皇の詔勅は、「天照大神を祭る者は殺せ」ということにならないか。


こんなバカげた話が大手を振って通用してよいのだろうか。



同書 P162〜


神武天皇から崇神天皇までの約三百年に、日本の国史に何が生じたのか。


第九代開化天皇は、丹波国から竹野姫を妃に迎えているが、この姫にまつわる興味深い伝説が伝わる。


「昔、依遅ヶ尾に三頭五尾の大蛇が棲んでいた。ある日この大蛇が斎神社(竹野神社の境内社、祭神は竹野姫)の神姫に一目惚れして恋の病に落ちた。しかし、斎神社の神威に打たれて近づくことが出来なかった」


社伝にいう大蛇とは、大和の大神神社の祭神が蛇であったことから、出雲族の男を指すと思われる。そして、式内大社竹野神社の祭神は、珍しいことに天照大神である。


つまり、この物語は、出雲族の男が天照大神の孫の天のホアカリ命の一族海部氏(あまべし)の姫をめとって、丹後を手に入れようとしたが果たせず、姫は開化天皇妃になったことを伝えている。
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2007年02月27日

出雲の罠

天皇の夢に大物主神が現れたという。しかもだめおしのごとく、天皇の側近者三名の夢にも現れ、共に同じ内容の霊夢を与えたという。


そして夢の通り、大物主神の子孫である大田田根子までが現れ、完全に役者が揃ってしまう。


これはただならぬ謀略である。


天皇家に「事件」は続く。


豊鍬入姫は宝鏡と共に旅に出ている。ヌナキイリ姫は衰弱して病気になる。そして、出雲神が神かかったとされる倭迹迹姫は、大田田根子の妻になる。



大物主神が夢に現れて、やっと大和が平になると安堵された天皇に、またもや災難がふりかかるのである。


そして、すべては大田田根子の登場に、やはりこの天皇家の災難の原因は集約されていくのである。



『日本書紀』 全訳現代文より


この後、倭迹迹日百襲姫命は大物主神の妻となった。けれどもその神は昼は来ないで、夜だけやってきた。


※ こんな神は信じられないし、こんな話も信じられない。先の夢見の話もだ。この男が生身の大田田根子であることは、よく読めばすぐ分かるのだ。



倭迹迹日百襲姫命は夫に言った。「あなたはいつも昼はおいでにならぬので、そのお顔を見ることができません。どうかもう暫く留まって下さい。朝になったらうるわしいお姿を見られるでしょうから」と。


大神は答えて「もっともなことである。あしたの朝、貴女のくしばこに入っていよう。どうか私の姿に驚かないように」


※ しかし、姫はくし箱を開けて中を見てしまう。怒った神は「わたしに恥をかかせた」と言って、三輪山に帰ってしまう。姫は自分を恥じて悔んで、自らはしで陰部を突き刺して死んでしまう。


これが有名な「はし墓古墳」にまつわる話である。人々は姫を偲んで昼に石を運び墓造りし、夜は神が造ったといわれている。


私たちはこの話しをこう読む。大田田根子は権力を手に入れるために、倭迹迹姫に近づいた。相手を尊い神に仕える男であるからと、父天皇も田根子を認めた。


しかし、姫はどこか疑っていて、田根子はついに正体を姫に詰問される。田根子は怒り、姫は確信を得る。しかし、姫のお腹には田根子の子供がすでにいた。


姫は田根子が出雲族の男だと知り、忌まわしい出来事の全てを判り、そしてお腹の子供もろとも自殺してしまう。


天皇が宗教者たる神官に逆らえない、これは異常な事態である。皇族の周りが出雲教の信徒であるのは明らかだ。三人の側近者の夢見はそれを続きを読む
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三輪山に降り立ったニギハヤヒ命


「ねじれ古代史」P50〜


『先代旧事本紀』にニギハヤヒはイカルガの峰に降りたとありますが、これも出雲が三輪山の地に降り立ったと書けるはずもなく、わざと大阪側の斑鳩の地とごまかしたのです。

※ ニギハヤヒ命様は叔父の天津日子根命を訪ねられた後、大和に入られ三輪山の麓に居を構えられたと思います。



飛騨の口碑を伝えた家では、都が大和へ移されたので安心してか、その辺のところを伝えていません。


当然ニギハヤヒは、大和の一等地である三輪山に住まいを構えている、豪族の所へ婿にいかれたのです。今ではニギハヤヒの御陵がわからなくなっていますが、ある天孫(子孫)の古老は「三輪山の社(大神神社)の少し上方にあったと聞いている」と言っています。


話が長くなりましたが、崇神天皇は、かつてニギハヤヒの住んでおられた住まいのところに社を建てて、ニギハヤヒをヌナキイリ姫に祭らせたのです。生前住んでおられた所に祀るのは古神道の基本的な姿です。



〇 ヌナキイリ姫の衰弱の原因


『日本書紀』には天照大神の御霊代は「八咫鏡」とありますが、ニギハヤヒの御霊代があるはずなのに何ら触れていません。これはおかしなことです。何故、姫は衰弱したのでしょうか。衰弱するほどの何があったのでしょうか?


ニギハヤヒの御霊代が何者かによって盗まれ、取り返しのつかない大変な事になったのでないかと思います。


……………………


〇 不可解な天理市の大和神社


ヌナキイリ姫の後に大物主神を祀った大田田根子が大国主の子孫とバレてしまった今、ニギハヤヒの御霊代を盗んだ者は誰か?誰もが怪しいと疑うのが、天皇を騙して三輪の社に入りこんだ大田田根子です。


さすがに図々しい大田田根子も、何とかいい訳をしなければならなくなったと思います。そして苦肉の策として社を造り、ニギハヤヒの御霊代が「ここにあります」ということにして、つじつまを合わせて、その場しのぎのいい訳をしたと思われます。


その後、遠慮がいらなくなった頃、ニギハヤヒをここ(大和神社)に崇神天皇が祀られたと云わんばかりに、わざと現在の低地に移してバカにしたのではないかと思います。


先祖を人々の住んでいる所より低い、汚水が流れてくる低地に祀ることはおかしなことです。


さらに後になって、ニギハヤヒを大国魂神の尊称で祀っていたのを、大国魂神とは大国主であると、ここでもすり替えて今日に続きを読む
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『日本書紀』を読む 二

よって堅固な石の神籠(神の降臨される場所)を造った。


※ どうやら「発動」した神は、天照大神のようだ。「発動」を抑えるかのように、「石の神籠」を造った、とある。




また日本(やまと)大国魂神はヌナキイリ姫に預けて祀られた。


※ 日本大国魂神は、ニギハヤヒ命である。



ところがヌナキイリ姫は、髪が落ち体が痩せておまつりすることができなかった。


七年春二月十五日、詔して「昔、わが皇祖が大業を開き、その後歴代の御徳は高く王風は盛んであった。ところが思いがけず、今わが世になって屡々災害にあった。朝廷に善政なく、神が咎髪(とが)を与えておられるのではないかと恐れる。占いによって災いの起こるわけを究めよう」と。

※ 天皇の姿勢は立派である。しかし、占いによって「神の意志」を問われるのは間違いであろう。



天皇はそこで浅芽原にお出ましになって、八十萬の神々をお招きしてト占された。この時に神明は倭迹迹日襲姫命(やまとととひももそひめ)に神縣かりしていわれるに、


「天皇はどうして国の治まらないことを憂えるのか。若しよく吾を敬い祭れば、きっと自然に平らぐだろう」と。


天皇は問うて「このようにおっしゃるのはどちらの神ですか」と。答えていわれる。


「我は倭国の域の内にいる神で、名を大物主神という」と。


この神のお告げを得て、教えのままにお祭りしたけれども尚験(しるし)がなかった。天皇は、そこで斎戒沐浴して、殿内を浄めてお祈りしていわれるのに「私の神を敬うことがまだ不十分なのでしょうか、どうしてそんなに享け入れて頂けないのでしょう。どうかまた夢の中で教えて、神恩をお垂れください」と。


この夜の夢に一人の貴人が現れて殿舎に向かって、自ら大物主と名乗って「天皇よ、そんなに愁えなさるな。若しわが子大田田根子を以て、吾を祭らせたら、たちどころに平らぐだろう。また海外の国も自ら降伏するだろう」と。



八月七日倭迹速神浅茅原目妙姫、穂積臣の先祖大水口宿禰、伊勢麻績君の三人が、共に同じ夢を見て申し上げていわれるのに「昨夜夢を見ましたが、一人の貴人があって、教えていわれるのに『大田田根子を以て、大物主大神を祀る祭主とし、また市磯長尾市を以て、倭大国魂神を祀る祭主とすれば、必ず天下は平らぐだろう』といわれた」という。


天皇は夢の言葉を得て、ますます心に歓ばれた。あまねく天下に告げて、大田田根子を求めら続きを読む
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『日本書紀』を読む


※ 大和朝廷が飛騨天孫族の何世代にもわたる努力によって開かれたが、その後人皇十代崇神天皇のときに「事件」は起こる。


天照大神はニニギ命にこう申された。「この鏡を飛騨皇統命(スメラミコト)のしるしとし、大切にして、あなたの住み眠る社(家)に置きなさい」。


その「事件」とは、天照大神の宝の鏡が皇の住む社から出され、その上あろうことか、近畿地方と東海地方まで、鏡を持った人皇の姫と共に数十年も「旅」をすることになるからだ。


何が神武天皇から崇神天皇の御代の間にあったのか?


それがこの物語を解く鍵である。



日本書紀(訳現代文)
―『日本書紀』 全訳現代文 宇治谷 猛著 創芸社出版から 引用

崇神天皇五年 国内に疫病多く、民の死亡するもの、半ば以上に及ぶほどであった。


六年、百姓の流離する者、あるいは反逆するものあり、その勢いは徳を以て治めようとしても難しい。それで朝夕天神地祇にお祈りした。


これより先、天照大神・倭大国魂の二神を、天皇の御殿の内にお祀りした。


※ 崇神天皇の五年に、流行性の病気で国の人々が半分以上亡くなることになった。

天皇は朝夕と天と地の神にお祈りした。

天皇の御殿には、天照大神・倭大国魂神の二神をお祀りしてあった。



そしてその神の勢いを畏れ、共に住むには不安があった。そこで天照大神は豊スキ入り姫に託し、大和の笠縫邑(村)に祀った。


※ これが天照大神の勅命に逆らう理由にされている。「その神」が二神の内のどの神か、わからない。「勢い」というからには、神が何らかの発動をされた、と読める。しかも、「勢い」は、共に天皇が住めない不安を持った、ほどの「勢い」である。


神の「発動」の理由が、先の文書からして、流行り病にあるようでもある。ある書には、「汚されんことを畏れて」神を天皇の御殿から出したとあるから、やはり原因はこの流行り病であるようだ。


これはおかしいのである。


ここには既に、鏡=天照大神という前提がある。そして、神は不浄を嫌うという暗黙の了解事項が存在している。これは、まったくおかしいのである。


飛騨高天原天孫族たる祖先に、鏡を神とする思想はなく、まして神が、流行り病を汚されるといって嫌うような祀りはない。


鏡は皇統命のしるしであり、飛騨国大ヒルメの形見であるから大事にされたが、神ではないし「勢い」を示されるようなものでもない。


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2007年02月26日

たとえば、女性美

テレビから知ったアメリカ人は、「ルート65」であり「ルーシー・ショー」でした。彼らは明るく、「近代的」な生活をしていて、車を持ち庭付きの大きな家に住み、広いテーブルで豪華な食事をしていました。


それは「作られたアメリカ中流家族」でありましたが、目の大きなルーシーの顔とスタイルは、強烈なインパクトを私に与えました。

鼻の高さは、小学校の美術教室に置いてあった「ブロンズ」像であり、キラキラ光る金髪は、美術図鑑にあった絵でした。日常は、親父がステテコ姿で畳に寝転び、近所にはオシャレをしているような女性は居ず、みんな大きな声で話し、騒がしい日々でした。


映画館で見る大人は背広にネクタイで、裕次郎は喧嘩が強く明るくて、若大将はギターを弾いて歌い、星ゆり子さんは言葉使いが丁寧でした。


「何してるんや〜こら〜!」なんて言わず、狭い現実から見る外人は、どう見ても「優秀な」人間のようにしか見えず、比較して我が街は、ひどく「劣って」いたのでした。


このような歪みは正される機会を与えられず、それは誰かが言いそうな「個人」の問題であり、マーブルチョコレートが欲しいと思うのは身のほどを知らないことなのだからと、そんな事は誰も言わないにしても分かっていて、金持ちをうらやむ事は間違いなのでした。


テレビで知る「現実」にはすぐにでも手が届きそうには思うのに、身の周りの現実を知れば知るほど遠のいたのでした。


美に対する憧れは、そういった日常生活からもたらされた意識に、ある時には反動となりある時には同調してきました。


優しい言葉使いの女の子に憧れるくせに正直になれず、美人が手放しで好きなくせに、自らを何処か制限しているという、意識の二重構造の中に、悶々とする青春時代でした。


先生や大人たちは建て前でしゃべる、しかし、身の周りの大人は「ええもんはええ」と言う。ベッピンは男のカイショであり、そんな高値の花を手に入れるのだと笑う。


初恋や恋愛をした女性は、私のあの頃の、どんな私が求めた相手だったのかを想う。その時々の私の自身の価値観を振り返る。


そして、また、女性美を考えてみる。


本当に見なければならないところ、そこに焦点の合わない諸々のコビリついたアクがある。この目は、そんな役割さえ果たしていない。ピントを拡大するばかりで、肝心なものが見えてもいない。


こんな年齢になってようやく、私はそんな事を一人続きを読む
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偶然に起きることなどはない

※ 前の「バーバラの本」は「マーシニアックの本」です。訂正します。去年に出版されました。



さて、私は、都市というものが人間を集めて成立する場であるかぎり、闇の側からすればかっこうの「人間教育」の場所とすることが出来ると考えます。


サティアの話の中に、アメリカニューヨークの地下が広い洞穴になっていること、国連のビルの地下にも洞穴があることを知りました。


つまり、これらの地下から低層四次元の波動が放たれることは可能なわけです。


またかつての都市は、その王の所有物であるかぎり、民にとって自由な人生はなく、管理支配に人間を囲い込むために、「仕事」を与えて隷属させます。あらゆる手を使い、人々が「生きる」手立てを都市生活に求めさせ、「この生き方しかない」と思わせます。


言い方を変えれば、都市生活は、人間隷属支配の実験場所であったのです。現在の都市生活のように、電話とパソコンとお金があれば、必要な食べ物や物品が必要なだけ手に入るというように、都市生活はあらゆる物と人の交流や交換が可能になる場所として造られて来ました。


そのような都市生活を国に広げたのが、今日先進国と呼ばれる地域です。


そういう視点で人々の集まる都市を見れば、闇の勢力にとっての都市は、人間隷属洗脳空間とも提起されます。

だから各地の王は、あらゆる人間の欲望を満たし、また新たに欲望を生み出すという都市の「機能」を考案し、王にとっての必要な「私財」としての人間を自らの土地に定住させることを望んだのです。


人々の集まる都市に闇の目が向かないはずはなく、人間を操り人形のようにコントロールすることで、闇は自らの存在理由を都市に求めたのでしょう。


そして闇が何か次の一手を打つとき、人間に「不安・恐怖・怒り」を誘発できる「事件」を起こす有効的な場所に、人間が集まる都市は利用されました。


有効的な「事件」は、例えば「流行性の病気」であり、例えば「天災」であり、例えば「外敵」であり、例えば「宗教」でした。


闇はあらゆる手段が、どのような効果を人間に与えることが出来るかを実験しました。


ペスト菌、エイズウィルス、鳥インフルエンザウィルスなどは、果たして自然界から誕生したのでしょうか?


闇の科学技術は、一部の悪魔主義者たちに引き継がれてはいないでしょうか?


地球の「温暖化」を宣伝するゴア氏のように、かつても今も、闇の勢力は続きを読む
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最近の状況

政治家は腐敗に満ち、役人たちは賄賂に満ち、企業は不正に満ち、そんなニュースがくり返し流され、こんな中では選挙に行く人々が減るのは当たり前でしょう。


人々はヒーローを求め、宗教者は我が教祖こそがその人だと多弁し、誰も自分が成ろうとはせず、冷めた傍観者でいようとする。


中世ヨーロッパで一大流行したペストが、誰かがつくりまき散らかした菌だと私たちは思っています。その後、ヨーロッパはどうなったでしょうか?


最近出たバーバラのプレアデスの本に、ある有名になった日本人が解説を書いています。そこには、「アヌンナキは10年前に地球を離れた」とありました。アヌンナキが別の所で役割を果たすというのは歓迎しますが、サティアの情報にもありましたが、アヌンナキに操作洗脳されたままの人間がいて、彼らは権力を握っていて、核のボタンさえ抑えている、という視点は書いてありません。


私にはこの人たちも傍観者に見えるのです。

プレアデスの難しい情報をそのまま本にすることも必要ですが、もっと必要なのは、私たち自身が「故郷をつくる」ために、これまでのすべてのシステムを変えていくために、力となるべき情報だと思うのです。ひふみ神示から借りれば、「わかりやすく解いてやれよ」という視点だと思うのです。


私は幽界に焦点をあてようと考えました。その作用が現実にどのようにして存在するかを、明らかにしたいと考えるようになりました。天照大神を出すということは、貴方を私を出すことだと思っています。


集団的「霊がかり」は日常続いていて、力の出せないやるせない現実が造られて私たちが埋没するかぎり、この世界は闇がまだ支配していることになります。


いくらフォトンが降り注いでも、光を内に受け入れなければ、光に向かわなければ、二本の霊線は生きてきません。


傍観者では、生きているとは言えません。
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飛騨の口承

飛騨の口承には、出雲の国譲りが両国の間で行われた後、九州平定、そして大和朝廷の確立まで、実に詳しく残されています。


大和へ飛騨から沢山の人々が移住し、少数の飛騨に残った人々は位山に眠る偉大な祖先と共に生涯を終えたようです。


大和朝廷の開始と共に、飛騨の口承も終わったのか、それともまだ他に伝承があるのか、出版された書籍を読むかぎりではわかりません。


しかし、それほど偉大な祖先たちが存在したにもかかわらず、例えば神武天皇の神社はありません。今の橿原神宮は、明治に建てられた社ですし、神武天皇のお墓もこの時「造られた」のです。


飛騨から初めて大和に入られたニギハヤヒの神社も、在るのは社伝のはっきりしないものであり、他の祖先と同様に、扱いとして粗末にされているとしか言えません。


そして歴史を伝えているはずの「記・紀」は矛盾だらけであり、いまだに「あ〜とも言える」し「こ〜とも読める」といった始末で、長い複雑な歴史観の論争の火種になってしまっています。


飛騨の極秘の口承伝を任された人間として、山本先生は独自の調査を始められ、ついに、出雲勢力が宗教を広めそして大和政権に介入した、という説にたどり着かれました。


そして私は、集団的な「霊がかり」現象の背景に闇の存在の介入を感じ、その存在こそはリラ人であると確信したのです。


時代を変える力が歴史の中にあります。例えば、先の世界大戦であり、明治「維新」であり、信長・秀吉・家康と続く戦国内乱時代です。


先の戦争においていつも問題とされるのは、「なぜ戦争を止められなかったのか」ということだと思います。それを解こうとするのですが、それぞれパズルのピースは検証できるのですが、時代の空気のような大きな流れがいったん出来上がってしまうと、たとえ権力を持った人間でもどうしようもないという、そんな経験者の話しをずいぶん聞かされてきました。


その空気の中にいなかった人間は、いちいち批判を加えたり正論を言ったりは出来ますが、出来上がったエネルギーの流れにはまんまとハマリ込んでしまう力があるのです。


近小な例だと言われるかも知れませんが、学校におけるイジメ問題も、このような一例だと言えると思います。

私は都市生活者もこのような、集団的「霊がかり」状況に置かれているのだと理解します。人殺しはしないけれど、欲求を操作され、動機づけを与えられ、ガラスケースに示された続きを読む
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「富士の巻」ひふみ神示 第三巻


第三帖 昭和十九年八月


「メリカもギリスは更なり、」


※ 神のゝがない国となってしまったことを表されています。神のゝ=ア、イ、ウ、エ、オが無いのです。



「ドイツもイタリアもオロシアも」


※ ロシアにだけ「オ」を付けられています。この当時のロシアは、「共産主義」という悪神のゝが花咲いていたために、このように表現されたと思われます。



「外国はみな一つになりて神の国に攻め寄せて来るから、その覚悟で用意しておけよ」


※ ルシファーを唯一神とする悪魔主義者たちは、今日、世界統一政府を実現するために大っぴらに動いています。この動きを判らないと、ひふみ神示の奥はつかめないと私は想います。



「神界ではその戦の最中ぞ。学と神力との戦と申しておろうがな、どこから何んなこと出来るか、臣民には分かるまいがな、一寸先きも見えぬほど曇りて居りて、それで神の臣民と思うているのか、畜生にも劣りているぞ」

※ 強烈な言葉です。それほどこの神は危機感を持たれていました。素盞鳴大神の子孫は、祓い清めが身魂の務めでなければなりません。



「まだまだわるくなって来るから、まだまだ落ち沈まねば本当の改心出来ん臣民沢山あるぞ。」



「玉とは御魂ぞ、鏡とは内に動く御力ぞ、剣とは外に動く御力ぞ、これを三種(みくさ)の神宝と申すぞ」


「今は玉がなくなっているのぞ、鏡と剣だけぞ、それで世が治まると思うているが、肝心の真中ないぞ、それでちりちりばらばらぞ。」


「アとヤとワの世の元要るぞと申してあろがな、この道理分からんか、」


※ 人間の役割としてのアとヤとワの民でしょうが、今日的には私は、肉体・霊魂・守護霊の一体のことだと受けとめています。


先の「岩戸しめ」の天照大神のところの、天照大神様の三つの体は、この意味だろうと捉えています。「まこと」の天照大神は、高次元の守護霊存在に違いないと想われます。



「剣と鏡だけでは戦勝てんぞ、それで早う身魂みがいて呉れと申してあるのぞ。」


「上下ないぞ、上下引繰り返すぞ、もう神待たれんところまで来ているぞ、身魂みがけたら、何んなことしていても心配ないぞ、神界の都にはあくが改めて来ているのざぞ。八月の十二日、神のひつくの神。」
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2007年02月25日

『古事記』の誤りを問う

国学者は大山祇命を山の神と早合点していたようですが、昔は山に住んでいたところの、海の支配権を持つ船団の頭領だったのです。

※ ひふみ神示にも、「木の神・山の神」としてのコノハナサクヤ姫の神が出てきます。大部分の人々がそう信じていたし、間違いでもないでしょう。しかし、「同じ名の神あるぞ」といわれ、「一神で生み出された神」から「二神が生み出す神を知れ」といわれるように、ひふみ神示のコノハナサクヤ姫の神は違うのです。


また、ひふみ神示には「竜宮のおと姫様」が出てきます。この神は海を司どられる存在です。私はこの「おと姫様」の元型が、神武天皇の母「玉依姫」だと思います。


同じ名の神である、二神が生み出された神は、どちらも素盞鳴大神と共に御活動のご様子です。




前にも少し述べましたが、九州の南端の薩摩半島の彼方から(私はインド南端のタミール語民族と推定)船で流れ着いて、笠沙(かささ)の岬を本拠地として住みつき、船を多数持っている塩土翁(しおづちのこじ)を海神(わたつかみ)と言いました。この海神の娘に豊玉姫と玉依姫がありました。『古事記』は豊玉姫を「わた」に仕立てています。



そこで九州の山間部には、北満よりウラジオストックの近くを通過して渡来したと思われるモンゴル族が勢力を張っていました。その首長が火遠理命(ほあかりのみこと)であり、この火遠理命と海神の娘豊玉姫が結婚し、この海神の助けにより、九州の大隅半島から鹿児島辺りに勢力を持つ隼人(琉球から来たと推定されるモンゴル族)を攻めたのです。


前にも述べましたごとく、皇孫(天照大神の孫ということ)ニニギ命の一族は、これを仲裁して兄弟杯(さかずき)をさせ、皇孫に対して子として仕える杯をさせたのです。そして、ニニギ命の子のウガヤフキアエズの命は玉依姫を妃に迎えたのです。


この出来事と大三島の大山祇命の娘コノハナサクヤ姫とニニギ命が結婚されたこととが、長い間に混同されて、笠沙の海岸にいた豪族の塩土翁を大山祇命にして、コノハナサクヤ姫をこの海神の姫に思い込んでしまったのです。


飛騨の山に住んだ命(ミコト)、すなわち大山祇命と、南方から潮や土をこして来た塩土翁とを混同したのが、とんでもない間違いを起こしたのです。



薩摩半島の野間崎へ上陸された皇孫はニニギ命と伝えられているが、実はウガヤフキアエズ命だったのです。命(ミコト)を喜んで迎えたのは大山祇命で続きを読む
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大三島の大山祇命


※ 大三島
瀬戸内海にある島、四国愛媛県と広島県の間にある。大山祇神社は伊予国一の宮であり、この地の大山住家からコノハナサクヤ姫が出られる。



〇 大山祇命の身元探し


飛騨に古代から伝わる口碑によりますと、乗鞍岳のふもとに上方といわれて地方の原住民から尊崇されている一族があり、その祖先は山の奥の奥に住んでいたもので、太古の住居の跡を後世の者は長者屋敷と言い伝えています。


今でも、その辺りの山の主と言われるほどに広い土地を持っていて、賢く人格の優れた人が出ています。この家には太古から門外不出の口碑書が伝わっていました。


※ この家
「この家」に何か被害でも起こらないか、そう心配された山本健造先生は家の名前を秘されました。しかし、他の人がもう明らかにされましたから、ここにその口碑を伝えていた家の名を明かします。

「昭和十年頃、丹生川(にゅうかわ)村旗鉾(はたほこ)の郵便局長をしていた若田仁太郎氏(後の丹生川村長)」です。(『飛騨の霊峰位山』P41都竹昭雄著)



飛騨に古代から伝わる口碑によりますと、太古、山本高山土后命という人が、飛騨から伊勢の鈴鹿に行かれた後、親戚の山下住命という人がやはり命を受けて鈴鹿に何年か滞在し、船を造り、陸づたいに瀬戸の内海に家来多数を従えて行き、浅瀬が広がり上陸しやすい大三島に上陸しました。


そこには横幅(よこはば)という布を体に巻いている原住民がいたが、この人々は上陸してきた一族を山下住(やまのしたずみ)の人と言ったが、後の人は敬って大山祇命(おおやまずみのみこと)と言うようになったと伝えています。



伊勢の鈴鹿にとどまり、飛騨や大三島と連絡をとって、飛騨の人々が下山して九州へ移動するときに船を整えて、大三島へ更に高千穂に届けた人が、山本高山土公命の子孫の猿田彦命であります。


鈴鹿の椿神社には、朝鮮から伝わってきた前方後円古墳よりも古い、石を円形に並べて中央に葬った石境(いわさかい)の古墳があり、高山土公神陵(お墓のこと)と刻まれた石柱があります。


(椿神社)の神官は山本姓であり、昔は山本姓の人々が群がり、その一帯は山本町となっていることは前に述べたとおりです。この山本町を開いた親戚が大三島の大山祇命なのです。


※ 前のブログに椿大神社の行き方を書きました。静かな緑豊かな神社を探しておられるならば、この椿大神社と伊勢奥の宮・滝原宮はお奨めです。続きを読む
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言語学から日本古代を推理する

「明らかにされた神武以前」P215〜


ニニギ命の天孫一行は、三姫の案内により、筑紫(つくし)の日向(ひゅうが)の高千穂の里のコオロギ族を頼って行かれたのです。


※ 天照大神の三人の姫様たちは、これが二回目の九州への旅でした。一回目の調査の旅で出会った、姫様たちが名づけられた「コオロギ」さんの村に行きます。



コオロギ族は足が長く、手も長く、コオロギさんと呼ぶと「オーイ」と返事をしたので、コオロギとアダナしたほど細長い背の人達であったと、飛騨の老翁は語りました。


恐らく、インド南端辺りから流れ着いた人々であったと私は思います。日本人ではなかったと思います。また中国や朝鮮の人でもないと思います。



大野晋氏は、インド南端に住む人々のドラウ゛ィダ語族のタミール語と日本語との間に、共通点の多いことを主張されていますが、薩摩半島の笠沙(かささ)の岬に上陸して、辺りに勢力を張っていた塩土翁(しおつちのこじ)は南方のタミール語族であったかもしれません。大野説に賛成したい気持ちです。


そして、高千穂の里に入ってインド原産の稲の栽培を教え広めていたコオロギ族は、この塩土翁の一族の分かれであった可能性が強いと思います。



ニニギ命は、外国の人を毛嫌したり拒否しないで和の心で抱擁して、血も文化も同化してゆく心の広い国際人であったことは、今日の日本を築く基礎となったと推定されます。


それで、ニニギ命の息子ウガヤフキアエズの命を笠沙の岬に案内して、その娘の玉依姫を面会させて仲人役をしたお方が、コオロギ族の長であったと推定されます。


ウガヤフキアエズの命と玉依姫との間に生まれたお方が、神武天皇になられる神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレヒコのミコト=サヌ命)であることは何度も繰り返したとおりです。


※ このような、皇統に他民族の血が入ったという提起は、その後の天皇家のあり方を見た時に、自然な考えであろうと思われます。

私はむしろ、そのような他民族を受け入れて行く天孫族に、人間の本来持つ力強さや生き方を学びます。それでこそ我が祖先と、頼もしくさえ感じます。




そこで、言語の系統から、その国の人々の血統まで断定してしまうことは無理と思います。純日本民族のいるところへ、あちこちの渡来民があったのですから、朝鮮語、満州語、蒙古語やアルタイ語、南方のインドネシア語、カンボジア語、ビルマやインド南端の続きを読む
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天孫族が九州に残した確証

話がさかのぼりますが、天孫、ニニギの命が九州へ御出発されるとき、天孫民族の部落へ通知されたので、白山麓の山下住命の子孫たちの若手の男女がはせ参じたのです。


※ 初めて飛騨地方に旅行に行った時に、白山地方に行こうとしたのですが、下調べのないままで、台風の被害で途中の道が通行止めでした。


しかし、不思議な光景に出会います。私と同じ色の車が、ちょうど前からやって来たのです。それは陽の光にまぶしいくらい輝いていて、おもわず乗っていた子供が「かっこいい」と叫んだのでした。

なんでもない事のようにも思えたのですが、私自身は自分の分身を見たような感じで、何とも奇妙な不思議な印象を強く受けました。

私たちはその車どおり、通行止めの為にその道をひき返します。


そう、あの前から来た同じ色の車(その後もほとんど同じ色は見掛けませんでした)は、私の“先”を走っていたのです。あんな狭い誰も通らない道を。




鈴鹿から出た船は今の大阪湾(そのころは、大阪の大部分は浅い海だった)に寄港し、その人々を乗せたのです。


九州の瀬戸内海岸の苅田(かんだ)に上陸し、そこに残った一団があって、豊前市には荻田、鳥越、広瀬、内尾、河内という部落があります。


ところが、石川県石川郡河内村には山下住命の子孫の荻田氏が今も住んでいます。そして、その近くには鳥越、広瀬、内尾、大河内の部落があります。石川県石川郡と福岡県豊前の両方に荻田、鳥越、広瀬、内尾、河内などが比較的集まって存在しています。


サヌのミコト(神武天皇)が東に御帰還されるときは、その子孫の若手の男女が、また参加したと推察されます。


白山麓の部落が九州の北東部にそのまま刻まれています。『豊前風土記』に「ここから天孫が上陸され高千穂にいかれた」と出ています。その上陸地に近い所に、白山麓の部落名が刻み込まれているということは、天孫ニニギ命が飛騨から九州に行かれた証明です。




〇 天孫族と言語の問題について


万一、天孫族が朝鮮や中国、インド方面からおいでになったとすれば、薩摩か、熊本、長崎、博多、出雲方面の上陸が当然です。急流が伴い危険な海峡を深く入って、福岡県東海岸の苅田に上陸するということは極めて不自然です。



そして、伊勢の猿田彦命が八岐(やちまた)へ天孫を出迎えたということは、どう解釈したらよいか説明できません。


言語は九州方面や、出雲に上陸した続きを読む
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琵琶湖畔の天孫族について

そこの(織田神社)の宮司は山東(さんと)という姓です。これは「やまもっと」が「やまと」につづまり、漢字が渡来したときに「やまと」に「山東」と当て字したと思われます。

※ 山本先生は古い飛騨の現地の言葉を知っておられる。「やまのふもと」から「やまもっと」になり、「やまと」になっていく過程は、言葉のオンを知らない私たちには解りにくいと思われる。


約2300年も山本の血が伝わっているものと私は頭の下がる思いでした。


祭神は国常立命であります。この神は飛騨で国を樹立された位山命であります。


※ 私はこの山本先生の説を、まだ受け入れがたい。位山命は、宮村を新しい飛騨国の中心とされた淡上方様の孫であり、第十七代目の皇統命(スメラミコト)である。

今後の課題として先を進みたい。




しかし、祭神は時代の風潮ですり替えられていますので、参考にして考証しますが、用心深く、正確に判断する必要があります。


敦賀に上陸した新羅の援軍の大半を亡くした場所が疋田として名が残っていること、また、気比神宮の近くに元比田(もとひだ)という地名が残ることも、その証拠です。



この戦争の主力となったのは、琵琶湖の湖北の山本氏の部隊でした。山本山のふもとに住みついた一族の先祖を祭った朝日神社(あさひじんじゃ)の宮司は朝日弥栄(いやさか)氏ですが、元は山本氏であったといわれています。この祭神の直系のお方と推察します。


飛騨の山本高山土公命(たかやまつちのきみのみこと)の子孫が、この地においでになり、その子孫が、この辺に部落を作って一致団結していたのです。


山本高山土公命は天照大神の先祖の分家で天孫一族ですから、山本山に天孫が降臨されたという伝説が今日でもあって、毎月一日には山本山に登山して参拝する行事が続いていることはすばらしいことです。



山本家は、清和天皇の子孫が源氏を名乗り養子縁組みするほどの名家だったのです。近江源氏と名乗り、治承四年(1180)以仁王の令旨を受けて近江源氏山本判官(はんがん)義経父子が旗上式のときに、鎧を掛けたという松が山本山のふもとの朝日神社の境内にあります。



〇 飛騨政権の連絡網

飛騨の政権(高天原)と出雲政権は天照大神や素戔鳴命の母(イザナミのミコト)が出雲から飛騨へ政略結婚したときから密接な関係があって、互いに行ったり来たりしたのですが、


※ 政略結婚は今日では続きを読む
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『日本書紀』より帰結するもの

『日本書紀』に出てくる前述の文章は、一つの事実が、書紀に書かれるまでに数百年もたっているので、さまざまな姿に伝えられているようです。


しかし、文章をつなぎ合わせてみると、新羅(しらぎ)の王子が王位継承を争って弟が兄を追い出したので日本へ脱出したところ、姫もあとを追って日本へ来て、垂仁天皇の下に三年いたが、朝鮮が恋しいので帰ることとなり、天皇から赤絹百巻をいただいて家来とともに帰ったが、新羅へは危なくて帰れないので任那(みまな)へ入ったところ、弟の軍隊が攻めて来たので赤絹を放棄して再び日本の敦賀に逃げて来て住んでいたが、



使いを弟へ送り「新羅の王権は汝に授けるから今後は仲良くたのむ、私は日本の王者になって、新羅の属国になるから援助の兵をたのむ」と書いたので、間もなく軍隊が敦賀に上陸したが、それを予見して軍を配置していたので、包囲されて大半は殺され、王子と姫、近侍の者は逮捕されたが、寛大な処置に感激して忠誠に努めたので、笥飯湾(けひわん)が都怒我湾(つるがわん)と呼ばれるほどに子孫たちが永住し、今は敦賀と呼ばれるようになった。



そして、王子と姫は気比神宮(けひじんぐう)の境内にある角鹿(つぬが)神社に祭られるまでに子孫に敬われるようになった、ということが浮かび上がってきます。


朝鮮の古書に「新羅の王子が日本の王様になった、姫も追って日本に行き貴姫になった」という噂が記録されていることは、この事件が実際にあった証拠と私は確信します。




〇 若狭の織田(おりた)神社と天孫族


若狭に行った山本一族を調査してみると山本部落があります。その近くに織田神社が小高い丘にあり、すぐ側まで2000年前は海水がきていたので、舟から降りた所でしたから、その港を眼下に見渡すことができる所に1900年前に創建された織田神社があります。


※ 日本の海岸部の形は、ずいぶん変わってきています。

図書館に行かれたら、古い地図を一度見てください。

天孫族が私の今居る難波に来た頃は、高い生駒山のふもとまで海の水が来ていたようです。従って、現在ある平岡神社辺りは、わずかな土地の場所でした。

住吉大社も同じく、大社のすぐ前に海が広がっていました。だから私は、「すみよし」を「澄見よし」つまり、眺めのよい見通しのよいところ、から来た名前だと思います。


このように、古代の祖先に波長を合わせる時は、どうぞ子供の頃の素直な続きを読む
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2007年02月24日

各地に残る実証の裏付け

※ 山本健造先生は、飛騨の老翁から聞いた話しを実証するために、八年間という時間を各地に訪れて確認するために費やされました。



老翁の言葉を裏づけるために富山の庄川と神通川の相迫っている所へ行ってみると、庄川の近くに山下部落があり、神通川の近くには山本部落があり、櫛田部落には櫛田神社があります。


櫛田神社は1800年前、人皇十二代景行天皇の御代から山本氏が代々神官を努め明治の始めころに「姓を自由に変えてもよし」とお触れが回ったころに宮川姓に変えたが、血統は前のとおりだとのことでした。


朝鮮部隊の大半を斬って、飛騨!飛騨!と両手を大空に上げて叫んで、飛騨の大空を礼讃した場所が、地図には疋田(ひだ)と出ています。


敦賀の気比神宮の境内には、意富加羅国(おおからこく)の王子の都怒我(つぬが)阿羅斯等(あらしと)を祭ってあります。これは王子の子孫や、生き残りの子孫たちが祭ったものと思われます。



〇 『日本書紀』に出てくる資料


『三国遺事(さんごくいじ)巻一』に「新羅(しらぎ)東海の浜に延烏郎なるものが、日本に渡って王となり、その妻の細烏女というも、また後を追いて来て貴姫となる」と出ています。


『日本書紀』の垂仁天皇(第十一代)の所に次の五つの文章が出ています。

「任那人(みまなびと)蘇那曷叱智(そなかしち)が『国に帰りたい』というので、赤絹一百匹(まき)を与えて任那(みまな)の王に賜(たま)うたが、その道中で新羅(しらぎ)の人がこれを奪い取った」と出ています。


三年三月、新羅の王子、天日槍(あめのひぼこ)が来て「我は新羅国の子なり、弟知古(ちこ)に国を授けてきたものなり」と言ったと出ています。


また「頭に角(つの)ある人が越国(こしのくに)の笥飯浦に来たので、そこを角鹿(つぬが)という。」


※ この「越国」は、現在の新潟あたりであると思われる。



「我は意富加羅国の王子の都怒我阿羅斯等という。またの名は于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)という。穴門(あなと)に来たとき、伊都都比古(いつつひこ)という者がいて『我はこの国の王なり、我のほかに王なし、よそに行かないで仕えよ』と言ったが、これは本当の王ではないと思ったので出雲の国を経てここへ来たという。」


「垂仁天皇が即位されるころから三年いた。都怒我阿羅斯等の帰るとき、汝の帰ったとき国号を改めて御間城(みまきの)天皇続きを読む
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新羅軍侵入の阻止


「一方では山本高山土公命(たかやまつちきみ)と山下住命にそれぞれの一族を引き連れて伊勢の鈴鹿に行かせ、そこを本拠として山下住命の子孫は分かれて西は瀬戸の海へ、東は伊豆へ、更に横浜へ。」


「山本の一族は三つに分かれて、一団は鈴鹿にとどまり、一団は琵琶湖の北の畔(ほとり)へ、一団は若狭の湾へ行って勢力を伸ばすことを命ぜられたのじゃ。」


「すると淡上方様の予言どおりに、朝鮮の王の子が王位継承の戦いに敗れて日本に逃げてきて朝廷(当時の大和朝廷)に上り三年いて、宝物をもらって朝鮮に帰ると新羅国の軍に攻められて宝物を取られた。」


「命からがら再び日本に逃れて敦賀に住んでいたが、朝鮮に密使を送り『王位はあきらめたから汝(なんじ)が王位につけよ。おれは日本国を征服して日本の王となり、汝の国の属国とする。汝は大軍を送り来たりて我を助けよ』と奏上したので、しばらくして大軍が船を連ねて敦賀に来たのじゃ。」


「そのときの敦賀から大和へ攻め上がるときの大将は、意富加羅国(おおからのくに)の王子都怒阿羅斯等(つぬあらしと)とも、于斯岐阿利叱知干岐(うしきありしちかんき)ともいう。名が二つあったんじゃ。」



「偶然と人はいうが、先祖の御守護だ!」


「夕方になったころ、白山のふもとから集団移動してきた山下住命の子孫の一団が、朝鮮から来た兵士たちが群れをなして南下して行くのを発見したのじゃ。その槍は七支(ななやり)といって真ん中が真っ直に突き出て、右に三本左三本の槍が出ているなど、日本にはないものだからすぐ外国人の来襲だということが分かったのじゃ。」


※ この槍は、現在国宝にされていて保管されている。日本の刀匠が新しいものを作ったが、その技術力に驚いたという。まったく未知の槍であった。




「若狭の山麓氏と湖北の山麓氏へ使者を送ったんじゃ。琵琶湖の北の方の山本山という山のふもとに勢力を養っていた一族は、山下住命の子孫の知らせで急ぎ北上して、迎撃体勢に入っていたのじゃ。」



「それに淡上方様からの言い伝えに『敦賀湾に朝鮮の襲来する時あり、その時は奮闘せよ』と代々しっかり伝えていたので『いよいよ、時が来たぞ』と奮い立ち、様子を探ってみると、民家に入って追い回し切り殺し、食糧を集めていたんじゃ。」


「どの民家も占領して、あっちでは男を切り、こっちでも老人を踏み倒し、泣き叫ぶ子供を切り、あちこちの民家や、食糧続きを読む
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意富加羅国(おおからくに)の王子


「明らかにされた神武以前」P75〜


白髪の老翁は木の葉の落ちるころ、上西藤朝(ふじとも)翁を伴い私の下宿を訪れて語り出されました。


「今日は、琵琶湖の近くへ、新羅(しらぎ)の王子が日本国王の地位を望んで攻めてきたが、天孫たちがそれを滅ぼしたことを伝えておこうと思う。これは秘密でも何でもないが、歴史の書物には出ていないことじゃ。」



「大淡上方様の子供で山本住日高日抱奇力命(山本住命と略す)、山下住水分奇力命(山下住命と略す)という兄弟があって分家された。」


※ 大淡上方様は、初代の皇統命(スメラミコト)だから、天照大神より一代十年と数えて約350年前の方です。



「この二人の子孫が飛騨の要所要所に配置され、宮村へ高天原の中心を遷されてからも古川、国府、上宝方面は山下住命の子孫が守り、高山、久々野、清見、小坂、萩原方面は山麓(やまのふもと)住命の子孫が守り、宮村の中心を守り続けていたのじゃ。」


「十五代ぐらい後の淡上方様の時代に、飛騨の上宝の本郷にいた山下御北(おきた)命の子孫たちと、国府の山本地区の山麓日抱命の子孫は、富山湾から昇り来る外敵感謝を命ぜられて下り、庄川と神通川が相迫っている今の櫛田(くしだ)神社のある高台に本部をおいて、山麓も山下もそこで勢力を伸ばしていた。」



「そして、その辺に一族がかなり増えたころ、山下一族は飛騨の命令により、そこを山麓一族に任せておいて、白山麓の鶴来の奥あたりに住んでいたが、時代が下るにしたがって人数が増加し、ここでは暮らしにくいので敦賀湾の近くに集団移動中に、敦賀に近い所、今は疋田(ひだ)というが、あのころは名もない所で、そこで大事件が起こり、それに参加して大手柄を立てたのじゃ。


そして、そこが懐かしくて住みついた所をヒダと今でも言うんじゃ。その大事件のことについて語る前に、別のことを話さぬと順が来ないなあ。」



〇 新羅(しらぎ)王子の日本占領の計画


「淡上方様は日抱きの御魂鎮(みたましずめ)がたいへん深く進んでおいでのお方であったので、将来のことを見通して心を静めていると、数百年近い将来、日本の北の海岸に異民族が大挙して押し寄せて、日本を植民地化しようとする大事件が起きるし、その次は九州方面に危ないことが起こると申されていたのじゃ。」


※ この予知能力を、私もにわかには信じられませんでした。しかし、ゆっくり考えた後に、続きを読む
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休憩

同書 P138より


私は出雲を実地に調査して分かったことは、いたる所に砂鉄の山や川があるのです。そして古代の人々が砂鉄を集め、粘土で溶鉱炉を作り木炭の火で鉄を製したタタラ炉が、今も飯石郡吉田村菅谷に残っています。


能義郡広瀬町北田には金屋子神社があり、その境内にはしめ縄をかけられたタタラが岩のように固まっています。


素戔鳴命が降り立った所は、意宇(おおの)郡安来郷(元はおおの国)や大原郡佐世郷(させのさと)、飯石郡辺りと思われます。


※ 私も偶然に、NHKの深夜番組「アーカイブス」で、この地方の昭和40年代当時のことを見た。(最近このような事が多い)


たぶんこの吉田村の映像に違いない。徳川時代にはこの村は、松江藩の領地であり、製鉄を一手に握っていた。松江藩主は徳川家の流れであり、幕府に認められて全国から職人を藩が集めて抱え、たいへんな財を成したようである。


番組は元お殿様をおいかけ、昭和に残る奇妙な村の在り方を伝えていた。村人がこの元お殿様の会社の社員で、会社は製鉄業から材木業に転身していた。


材木業を生む山は、相当な規模の山であり、そのすべてがこの元お殿様の所有だという。この家からは島根県知事が出ていて、明治の廃藩置県からすれば奇妙でもないが、その山の広大な数には驚いた。


そしてもっと驚いたのが、「社員」たちの仕事ぶりだった。彼らは普通の会社員ではない。まるで旧の侍のごときの「奉公」ぶりなのだ。


番組は暮の大掃除から始まった。社員たちは屋敷を掃除しにやって来る。各自の分担があり、何年も専門にやっているのだという。


例えば、畳を掃除する人がいる。例えば、障子の張り替えを専門にする人がいる。彼らはどうみても会社員ではなく、「使用人」であり、それを先祖代々当たり前の仕事としてやってきたというのだ。


何十とも見える蔵があり、何百年分の漆器の器や台帳の類があり、その蔵を任されている人もまた、先祖代々の仕事としてきたという。


イメージを与えるなら、それは一つの陸の離れ孤島の小国である。そう、彼ら社員は、その小国の住人であり、松江市に住む社長一族の留守を守っている、小国の一族なのである。


社長は松江市に住み、地方放送局を始めいくつかの会社を持っている。仕事には松江市に住む方がよく、小国に住む理由は見当たらない。しかし、広大すぎる土地を手放すこともなく、小国の住人があとを続きを読む
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八岐(やまた)の大蛇(おろち)退治の真相

同書 P73〜


〇 八岐の大蛇退治のオロチは大陸のオロチ族だ


出雲地方にも弥生時代に朝鮮半島北東部のオロチ(オロチョン)族が来て、出雲の砂鉄から鉄剣を作っていたのです。


そのころ、これらの人々が略奪結婚をするために、両親の世話をしなければならない跡とりの娘までも奪い取ろうとしたので、素戔鳴命(天照大神の弟)はこれらの男たちに酒を飲ませて、酔ったところを切り殺した事件を『古事記』には八岐の大蛇退治として記されているのです。


こうして外国の言語や文化は日本人の中に浸透してきました。血も混入されてきましたが、鈴鹿地方以東はまだ純日本人の血は保たれていると、血液学者は証明しているのです。


出雲地方に入ってきた民族について考えてみますと、朝鮮北東部の国境を越えたソ連領に、アルタイ山脈から北満(現在の中国東北部)に伸びているアルタイ語族に属するオロチ族が住んでいます。この民族が出雲に来て、女狩りをして大蛇のごとく嫌われたのです。


※ ひふみ神示には「オロシアに上がりていた極悪神」とか、「北から来るぞ」とあり、リラ人の足跡を見る気がします。

現在オロチョン族は平静な暮らしをしていて、そんな過去があったなど、現在の人々にはみじんも見られません。




『古事記』では「越しの八岐のオロチ」と出ています。「越し」とは海を越してきたという意味であり、「八岐」とは「たくさん」という意味です。「オロチ」とは大蛇ではなく民族の名ですが、蛇とオロチが同じものになったのです。


このオロチ族が出雲に勢力を張り、日本の征服を企図していたのを予見して、その退治を命令されたのがイザナギの命であり、それを素戔鳴命と相談して、実施に移す計画を立てられたのが天照大神であり、実際に退治したのが素戔鳴命であったのです。『古事記』にはその辺をぼかしてあるのです。


オロチ族はアルタイ語族に属する民族で、朝鮮民族でもなく漢民族でもないのですが、出雲に根を張って純日本語に大きな影響を与えたのです。この他、中国南部あたりから流入した人々が稲作を伝えて、日本の生活文化に大きく影響して参りました。
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老翁の語った外来民族と大和民族の衝突

飛騨の山奥の老翁が語った大昔の口碑(いい伝え)が、次の事実と合致していたのも不思議なことでした。


「明らかにされた神武以前」P72〜


〇 クマ民族とソオ民族の渡来

弥生時代以降、一部の外国民族が熊本県の有明海辺りに上陸し、八代(やつしろ)から球磨川の上流、人吉盆地あたりに住みついて、最初は農耕せずに略奪と侵攻を繰り返していたようです。この民族が、かなり後まで時々頑強に抵抗し、日本民族に同化しなかった球磨族です。


そのころ、別の外国人が大隅半島の志布志湾(しぶしわん)の奥の、今の大隅町辺りに住みつき、最初は農耕せずに侵攻と略奪で原住民を脅かしたらしいのです。


後になっても代々の朝廷に従わなかったので奄美隼人といわれたり、囎唹族(ソオぞく)と呼ばれました。


その後、年々朝鮮の荒くれ男たちが渡来し球磨族や隼人族(囎唹族)と一緒になって一大勢力となり、日本全島席巻の心配がでてきたのです。



〇 山幸と海幸の戦いと仲裁


前述の外来民族が農耕よりも略奪と侵攻を繰り返しすころに、天照大神(ヒルメムチ)はそれを憂え、日本の将来のために外来民族をおとなしく農耕させるように、ニニギの命に多数の人々を従えさせて派遣されたのが、『古事記』に出てくる天孫降臨なのです。


球磨族の長が火遠理命(ホアカリのミコト)であり、奄美隼人の長が火照命(ホテリのミコト)です。


この両族の衝突を山幸命と海幸命の喧嘩として『古事記』には記されています。


ニニギの命は喧嘩の仲裁をして、両族長に兄弟の契い(誓い)の杯をさせたうえに、ニニギの命を親とする契いの親子杯をさせたのでした。


これを『古事記』ではニニギの命に火照命と火遠理命の二人が子として生まれたと記してあります。こうして九州方面の外来民族もおとなしく農漁に励み平静になったので、ニニギの命の孫のサヌ命(神武天皇)が大和に帰って政府を開くことになるのです。


その後、仲哀天皇のころ、三韓(朝鮮半島に三つの国があってこう呼ばれた)の兵士が来て熊襲(くまそ)を助け日本侵攻を企図(きと=企てた)したので、神功皇后の三韓征伐となり、熊襲は平静化し、以後、日本人と同化してきたのでした。


※ 日本人が「杯ごと」を重視するのは、戦いを避ける友好的儀式だったようです。
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2007年02月23日

「下つ巻」第十六帖


「知恵でも学問でも、今度は金積んでも何うにもならんことになるから、さうなりたら神をたよるより外に手はなくなるから、さうなりてから助けて呉れと申しても間に合わんぞ、」



「イシヤの仕組みにかかりて、まだ目さめん臣民ばかり。」



「日本精神と申して仏教や基督教の精神ばかりぞ。」


「今度は神があるか、ないかを、ハッキリと神力みせてイシヤも改心さすのぞ。」


「神の国のお土に悪を渡らすことならんのであるが、悪の神わたりて来ているから、いつか悪の鬼ども上がるも知れんぞ。」



「神の国ぞと口先ばかり申しているが、心の内は幽界(外国)人沢山あるぞ。」



「富士から流れ出た川には、それぞれ名前の付いている石置いてあるから縁ある人は一つづつ拾ひて来いよ、」

「お山まで行けね人は、その川で拾うて来い、みたま入れて守りの石と致してやるぞ。」


「これまでに申しても疑ふ臣民あるが、うその事なら、こんなに、くどうは申さんぞ。因縁の身魂には神から石与えて守護神の名つけてやるぞ。」


「江戸が元のすすき原になる日近づいたぞ。てん四様を都に移さなならん時来たぞ。江戸には人民住めん様な時が一度は来るのぞ。」


「前のやうな世が来ると思うていたら大間違ひぞ。江戸の仕組みすみたらカイの御用あるぞ。いまにさびしくなりて来るぞ。」


「この道栄えて世界の臣民みなたづねて来るやうになるぞ。七月の二十一日の夜、ひつ九のか三。」


※ この世から見た「ひつ九」ではなく、あの世から降りた霊線の「ひつ九」の神示であります。


つまり、九次元銀河中心から放たれた神示であります。その線に乗れる身魂は、すくなくとも多次元世界のわかる人でなければなりません。


飛騨天孫族は、分家を作るために山を降りる際に、石に祖先の御魂をこめて大切にしていたのだと伝えられています。


地球大神が創り給う石を、霊が万物に宿り給うことを、知り得ない身魂依ではわかりません。


地球大地二次元を、思い至らない霊的知識ではつかめません。この大地は私たちの肉体とたえず同調してきたのです。


私たちの肉体は、地球大地に還り初めて力を発揮できるのです。それがグラウンディングの教えです。
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三四五(みよいづ)の仕組み


ひふみ神示 「下つ巻」第十四帖


(抜粋)
「一ニ三(ひふみ)の仕組みとは、永遠(とわ)に動かぬ道のことぞ、三四五(みよいづ)の仕組みとは、みよいづの仕組みぞ、」


「御代出づ(みよいづ)とは神の御代になることぞ、この世を神の国にねり上げることぞ、」



※ 高次元存在において、数の存在においては、こうした数を基にした教えは自在のようです。


三(次元)の四(世)を、五(次元)までひき上げる。三次元から五次元へと、変わらない四次元の干渉を受けることのない道を確立する、それが三四五(みよいづ)の仕組みです。


つまり、神界と現界にある「大きいレンズ」「地上に歪みをもたらしてきた存在」の解消が、この三四五の仕組みにはあるのです。


ひふみ神示は五の数を、神界の「位置」と教えられています。その五を熟知された存在は、守護霊界の位置、六次元より上の存在をおいて他にないと私は思います。


五六七は、「ミロク」の神界と教えられる存在は、フォトン・ベルトによる光の世を人間に教えるために現れたのだと思います。


五次元、六次元、七次元世界を伝える光の使者プレアデス人は、「ミロク」の使者であると思います。


このようなひふみ神示の読み方が可能になった今、新しい情報からひふみ神示を読み解いていくことは、もう難しくないのだろうと思われます。


これまでの雑念を祓い清めして、カー・エネルギーを得るように、新しいひふみに出会う秋だと思います。
ニックネーム 龍 at 19:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

ひふみを読む

各巻の内でも最初の神示に、神の意図が述べられていると思います。


「上つ巻」ひふみ神示第一巻 昭和十九年六月の第十八帖に、最初に「スメラ」が出てきます。


(抜粋)
「この道はスメラが道ざ、すめるみ民の道ぞ。みそぎせよ、はらひせよ、臣民早くせねば間に合はんぞ。岩戸開くまでに、まだ一苦労あるぞ、この世はまだまだ悪くなるから、神も仏もこの世には居らぬのざといふところまで、とことんまで落ちて行くぞ。」


※ この道はスメラが道ざ、はっきりと示されています。そして、第ニ十六帖の同年七月一日の神示に、こう明かされています。



「「あ」の身魂とは天地のまことの一つの掛替ない身魂ぞ、「や」とはその左の身魂「わ」とは右の身魂ぞ、」

「「や」には替へ身魂…」



※ 神が言われる掛替ない「あ」の身魂があり、「や」があり「わ」の身魂=人間がいると言われています。さて、その違いは次の神示で少し明かされています。



第三十ニ帖
「世の元からヒツグとミツグとあるぞ ヒツグは神(〇の中にゝが入る有名な記号)の系統ぞ、ミツグは〇の系統ぞ。」


「ヒツグはまことの神の臣民ぞ、ミツグは外国(幽界)の民ぞ」


「神界と幽界と結びて一ニ三(ひふみ)となるのざから、外国人も神の子ざから外国人も助けなならんと申してあらうがな。」


※ 「外国」を文字どおりに読むのではなく、永くアヌンナキ支配によって洗脳され続けた人間と、後の神示で理解されます。さて、次はもっとはっきり明かされています。



「下つ巻」ひふみ神示第ニ巻 昭和十九年七月の第九帖です。

「今度の戦は神と幽との大戦ぞ。神様にも分からん仕組みが世の元の神がなされているのざから、下(しも)の神神さまにも分からんぞ。」


※ 「神と幽との大戦」は、記号で表されています。あの神を示す記号と〇です。

私はこう理解しています。


リラ人は、もしくはリラ人の混血種は日本人となった。しかし、いまだに幽界からの波動で人間を支配しようとしていた。


一方アヌンナキ支配の人間たちは、世界統一支配のために日本を狙って戦争を仕掛けた。

幕末から明治にかけての日本の混乱の背景は、リラ人とアヌンナキとの支配権力争いが元となっていた。


人間スサノウがリラ人の元型鬼と戦ったことで、我が民族は闇のリラ人を霊的に受け入れることになった。しかし、それは神仕組みであり、アジアのこの地域(中国・続きを読む
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